阿部正弘(あべ まさひろ)幕末の日本を開国に導いた老中

江戸幕府老中・阿部正弘(あべ まさひろ)は幕末の物語にはよく出てくる人物です。

優柔不断な人物。江戸幕府の衰退を早めた人物と評価されることもあります。しかし、外国船が頻繁にやって来て開国を求める世の中では、昔からのやり方は通用しなくなっているのを一番良く知っているのが阿部正弘でした。

阿部正弘は日本が生き延びるためにどうすればいいのか模索しました。

阿部正弘はどのような人物でなにをしたのか紹介します。

阿部正弘(あべ まさひろ)とは

名 前:阿部正弘(あべ まさひろ)
通称・官名:主計頭・伊勢守
幼名:正一、剛蔵、主計
生 年:文政2年10月16日(1819年12月3日)
没 年:安政4年6月17日(1857年8月6日)
父:阿部正精 
母:高野貝美子
妻:正室:謹姫(松平治好の娘)、継室:謐姫(松平直春の娘)

子:篤之助、哲次郎、鋼蔵、寿子、養子:正教

備後福山藩藩主・阿部正精の五男として江戸で産まれました。

父の死亡後、兄が家督を継ぐと本郷の屋敷に写りました。

福山藩藩主

天保7年(1836年)。18歳。病弱な兄の養子になり、藩主になりました。 正広は18歳で福山藩10万石の藩主になったのです。

天保9年(1838年)。20歳 。奏者番になりました。奏者番とは幕府の儀式を行う役職です。譜代大名がなる役職で。出世コースの入口のようなものです。

以後、幕府の様々な役職につきますが、藩主との兼任です。正広は江戸にいることが多く、藩の仕事は家臣に任せていたようです。幕閣に参加する譜代大名はどこもそのようなものです。

天保11(1840年)。22歳。寺社奉行見習い、寺社奉行になりました。

このとき、徳川家斉の時代に大奥と僧侶が乱交していたことがわかりました。正広が寺社奉行になったときには既に家斉は他界していました。家斉の名誉が傷つくことを恐れた正成は僧侶を処罰し、大奥の処分は一部だけにしました。この処分によって、家斉の子で次の将軍・徳川家慶から信頼を得たといいます。

老中時代

天保14年(1843年)。わずか25歳で老中になりました。

天保15年5月(1844年)。江戸城が火事で焼け落ちてしまいました。更には外国の船もやってきます。外国との問題のこじれや、江戸城再建費用を十分集められなかった老中首座・土井利位は徳川家慶の怒りをかい降格。かわりに水野忠邦が老中首座になりました。

水野忠邦はかつて天保の改革をおしすすめた人です。江戸町民の評判が悪かったので一度失脚していました。家慶によって復活したのです。

阿部正弘は土井たちとともに水野の老中首座復活に反対しました。

老中首座

弘化2年(1845年)。水野忠邦は過去の不正を理由に隠居になりました。かわりに阿部正弘が老中首座になりました。

この時期、外国船が毎年来ていました。阿部正弘は海の守りを強化しました。海岸防禦御用掛を作り、防衛と外交問題に対処しました。

阿部正弘が老中になる前から幕府はアヘン戦争の結果を知っていました。外国船を攻撃して追い返すこと(外国船打ち払い)は逆行になるなると判断し、外国船には水と薪を渡して穏便に帰らせるようにしていました。阿部正弘もその路線を受け継ぎます。

身分にかかわらず有能な人材を採用しました。その中にはジョン万太郎もいます。

何度か欧米から開港をもとめる使者が来ましたが、鎖国を理由に拒否しました。

嘉永6年5月(1853年)。浦賀にアメリカ東インド艦隊司令官のマシュー・ペリーが来航。

ペリー艦隊がそれまでの外国船と違うのは、大型の蒸気船(いわゆる黒船)を4席揃えたことです。圧倒的な武力を見せつけ直接江戸湾に侵入したことでした。これは世界最大級の戦艦を束にして東京湾に入るのと同じです。

同じ年には長崎にロシアのプチャーチンも来ています。

正広は武力を用いて交渉を迫るペリーに危機感を強めました。そこで大名や朝廷に意見を求めました。幕府だけでは対処できないことを自ら認めたのです。

水戸藩の徳川斉昭、薩摩藩の島津斉彬、福井藩の松平慶永などはもともと阿部正弘と交流がありました。

徳川斉昭を海防掛顧問にして、雄藩(有力藩)の島津斉彬、松平慶永らを幕政に参加させました。

結果的に朝廷や有力大名の発言力が大きくなり、幕府の力は弱まりました。

幕府内部でも鎖国派と開国派が対立するようになりました。

10月。徳川家慶が死去、徳川家定が将軍になりました。

嘉永7年1月16日(1854年2月13日)。ペリーが再び来航。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)。日米和親条約が結ばれました。条約締結後、天皇の事後承認を得ました。ロシア、オランダとも和親条約を結びました。

条約に不満な徳川斉昭は海防掛顧問を辞任しました。

安政2年(1855年)。幕府の人事を巡って老中・井伊直弼と対立。

幕府内の対立を解消するため、阿部正弘は老中首座を辞任、老中にしりぞき堀田正睦を老中首座にしました。

阿部正弘は国内や海外の問題が山積みになる中、安政の改革を進めました。その一環として海軍力の強化、能力の高い人材を幅広く採用しました。

江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを採用して講武所や長崎海軍伝習所、洋学所を設立しました。

講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の元になっています。

安政4年6月17日(1857年)。阿部正弘は死去。

阿部正弘の死後、彼の育てた人材の多くが井伊直弼によって追放、処刑されます。有能な人材を失ったことは幕府や日本にとって痛手だったかもしれません。

幕府の限界を認める

優柔不断で幕府の力を弱めた人物と評価されることがあります。しかし当時の幕府には、次々とやってくる外国に対抗できる人材はいませんでした。一部の人間が権力を持ち、官僚化した幕府の組織は外国の変化に対応できなくなっていたのです。

その事実を認め大名や朝廷に意見を求め、幅広い人材を集めて問題を解決しようとしました。

結果的に江戸幕府の権威を落とし、幕府の崩壊を早めたことになるかもしれません。しかし日本が古い体質のままなら外国に支配された可能性は高いです。阿部正弘は日本が生き残るためには必要な人物だったのでしょう。

むしろ阿部正弘がもっと長く幕府にいれば井伊直弼時代のような混乱がなく明治維新は別の形で実現したかもしれません。