塙直之団右衛門・夜討ちの大将、浪人は名を売ってなんぼ

五七の桐
五七の桐

塙直之(ばんなおゆき)は豊臣家の武将。
塙団右衛門の名前の方が有名です。

NHK真田丸では大坂城の軍議で真田幸村に名前の入った木札を渡していた人物です。
木札は大坂冬の陣で出てくるエピソードにちなんだものです。

塙直之とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 塙直之(ばんなおゆき)

 

名前:塙直之(ばんなおゆき)、直次(なおつぐ)という説もあります。
通称:団右衛門

生年:永禄10年(1567年)?
没年:慶長20年4月29日(1615年)

出身は不明。
経歴も不明です。

尾張の国で織田信長の家臣だったという説や、北条家の家臣だったという説もあります。

いずにしても北条氏が滅亡したときには浪人でした。

 

松山・加藤家に仕官、朝鮮出兵で出世。

北条氏滅亡(天正18年)から朝鮮出兵(天正20年)の間の時期に、加藤嘉明の家臣となりました。加藤嘉明は豊臣秀吉の家臣。賤ケ岳七本槍の一人です。

家臣と言っても待遇は足軽並み。高い身分ではありません。
朝鮮出兵が直之出世のチャンスとなります。朝鮮出兵では主君の加藤嘉明は青地に日の丸の旗を作りました。大柄な直之が旗を持つのにふさわしいということで、選ばれました。直之は戦場で目立つ旗を背負って戦いました。朝鮮軍の船を一人で奪取するなと活躍しました。その働きは味方だけでなく、朝鮮や明の兵からも注目を集めます。この戦いで350石の領地を与えれました。

関ケ原の戦い

関ケ原の合戦のころには1000石の鉄砲大将に出世していました。このころから塙団右衛門と名乗るようになりました。

関ケ原の戦いでは鉄砲大将として出陣しました。加藤嘉明の命令を無視して部下を勝手に出撃させてしまいます。団右衛は嘉明から「将の器ではない」と叱られます。団右衛門は反省するどころか、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎(小さな水にとどまることはなく、カモメは天高く飛ぶ)」という漢詩を書き残して加藤家から出て行ってしまいます。

これを見た嘉明は激怒、他の武家が団右衛門を仕官させないようにするため奉公構を出しました。

 

再仕官そして再浪人

加藤嘉明の出した奉公構のせいで他の武家では、団右衛門を雇えなくなりました。ところが団右衛門を雇ってくれる大名が現れます。

小早川秀秋でした。小早川家は加藤家よりも格上のため、嘉明の出した奉公構を無視しても嘉明は文句言えません。小早川家で1000石の鉄砲大将として働くことになった団右衛門でしたが長くは続きませんでした。

慶長7年(1602年)。主君・小早川秀秋が病気で死亡。小早川家が断絶して再び浪人になります。

尾張国清州の松平忠吉に召し抱えられます。忠吉は家康の息子だったので嘉明は文句言えませんでした。
慶長12年(1607年)。忠吉も死亡。清州松平家は断絶して再び浪人になります。

それでも福島正則に召し抱えられ、馬廻衆1000石で仕えました。ところが正則に対して加藤嘉明が抗議しました。福島正紀と加藤嘉明はともに賤ケ岳七本槍の一人、武家としての格は同レベル。正則は嘉明の抗議を無視できずに団右衛門を解雇しました。

結局、団右衛門はまた浪人となりました。解雇されては仕官の繰り返しでしあがさすがに雇ってくれる家はありませんでした。仕官を諦めた団右衛門は妙心寺に身を寄せて出家「鉄牛」と名を変えました。ところが托鉢にでるときも刀を差したままなのでヒンシュクをかってしまいます。

大坂の陣

こうした経緯もあり、大坂で浪人を集めているとの知らせを聞くと、どういうわけか団右衛門は寺を出て関東へ向かおうとしました。近江(滋賀県)あたりまで来て「関東方は人数が多いので手柄を立てても出世は期待できないが、豊臣方なら大名にもなれる」と考え治して、結局は大坂城に入りました。このとき山縣三郎右衛門ら10人ほどを引き連れていたといいます。

大坂では浪人衆の一員となり、大野治房の部隊に組み込まれました。
大坂冬の陣では大野治房隊の一員として出陣しました。

 

夜討ちの大将

慶長19年12月(1614年)に入ると、大坂城は囲まれます。幕府方は射程の長い大砲で攻撃するため豊臣方は劣勢になっていきました。団右衛門たちは活躍の場を失っていました。

団右衛門は治房隊の者たちと相談し夜襲を計画しました。上司の大野治房は団右衛門の提案を許可しました。

団右衛門は自分をクビした加藤嘉明を恨んでいました。ところが嘉明は大坂には来ていません。豊臣家と縁の深い黒田長政、福島正則らとともに江戸にいるように命令されていたのです。団右衛門のターゲットになったのは大坂城の西を包囲していた。蜂須賀隊でした。11月に行われた戦いで大野治房隊の守っていた砦を奪った部隊です。

慶長19年12月15日(1614年)。治房は夜襲のために150人の兵を用意しました。団衛門は「夜襲は少人数で行うべき」と訴えます。治房と団右衛門の話し合いは決着がつかなかったので15日の出陣はいったんは取りやめとなり、あたらためて16日に出陣が決まりまいた。

12月16日の夜から17日にかけて、団右衛門は米田監物とともに80人の兵をつれて幕府側の蜂須賀軍のいる本町橋に夜襲をかけます。本町橋の南を守っていたのは中村重勝の部隊でした。重勝は

に攻撃をしかけます。この戦いで蜂須賀隊を指揮していた中村重勝が死亡。重里を討ったのは木村吉右衛門でした。中村隊を撃退しまぢした。このとき、本町橋の上に机を置いて指揮をしたと言います。大声を出して指揮を出し「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札をばらまきました。自らを「大将」だとアピールしたのです。かつて加藤嘉明に「将の器ではない」と言われたのをよほど根に持っていたのでしょう。

しかし団右衛門の活躍もむなしく和議が成立。活躍の場はなくなりました。

 

大坂夏の陣

冬の陣のあと堀が埋め立てられ、野戦しか方法はなくなっていました。

紀伊、大和方面から来る幕府軍を迎え撃つことになりました。

樫井の戦い

4月29日。紀伊方面から浅野長晟の軍が大坂城に向かっていました。そのため大野治房隊は樫井(大坂府泉佐野市)のあたりで浅野軍を迎え撃ちました。

塙団右衛門は大野治房隊の先方を務めていました。おなじ先方で仲の悪かった岡部則綱と張り合って前に出過ぎてしまいます。そこへ浅野軍の亀田高綱の部隊が待ち伏せに会って攻撃を受けました。

団右衛門達は応戦しますが、亀田高綱隊は鉄砲を撃っては少し退き、また討っては退きを繰り返しました。高綱の巧みな作戦にはまった団右衛門たちは兵を失っていきます。

団右衛門隊はたまらずに突撃をかけ接近戦に持ち込みましたが混戦の中討ち死にしました。

享年49。

岡部則綱は敗走。大坂城に戻った則綱は「団右衛門を見殺しにした」と噂になり一時は切腹を覚悟したといいます。

大野治房が団右衛門達が戦ってると連絡を受けたとき、願泉寺で接待を受けて食事中だったとも言われます(願泉寺の僧・了閑の策略とも、接待の話自体が嘘だとも言われます)。あわてた大野治房が到着したときには、すでに団右衛門は戦死、浅野軍も撤退した後でした。

 

 

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