橋本左内、安政の大獄で命を落とした早熟の天才の一生

橋本左内(はしもと さない)とは、幕末に活躍した志士です。

福井藩の松平春嶽(慶永)に仕え、藩の政治だけでなく、幕府の政治にも関わりました。

積極的に西洋の技術や文化を取り入れようという、当時としてはかなり進んだ考えの持ち主です。

西郷隆盛とも交流がありました。

しかし安政の大獄で処刑されてしまいます。

橋本左内とはどんな人だったのか紹介します。

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 橋本左内(はしもと さない)とは

名 前:橋本 綱紀(はしもと つなのり)
通 称:左内(さない)
出 身:越前国(福井県)
生 年:天保5年3月11日(1834年4月19日)
没 年:安政6年10月7日(1859年11月1日)
父:橋本長綱 
母:小林静境の娘
子:

福井藩士・橋本長綱の息子として生まれました。

啓発録を執筆

15歳で啓発録を書きました。

啓発録の内容はこのようなものです。
・稚心を去る。
 稚心(ちしん)とは子供じみた心。楽をしたり稽古を疎かにして、いつまでも親に甘えてはいけない。

・気を振るう。
 人に負けまいと思う心。努力しないで負けることは恥ずかしいこと。それを知って努力することが大切。

・志を立つ。
 志とは生き方の決意を固めるということ。志をたてるには書物を読み歴史を知って深く心に感じた部分を書き留めて。自分に足らないところを努力することが大切。

・学に勉む。
優れた人物の立派な行いを習い、自らも実行し、自分の力を出し尽くして目的を達成するまで続ける。知識を蓄えるだけでなく忠孝の精神や文武の道を修行することも大切。

・交友を択ぶ
交際する友人をみきわめて選ぶことが必要。益友には積極的に関わり、損友がいたら、その人の良くない面を正しい方向に導いてあげなければいけない。

橋本左内は15歳でこの考えを持っていたのです。

藩を支える知識人となる

嘉永2年(1849年)。16歳で大坂にでて適塾の緒方洪庵や杉田成卿のもとで蘭方医学を学びます。

その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠ら、後に時代を動かす人物たちと交流しました。

西郷隆盛は左内を優秀な思想家だと高く評価しました。

20代前半のころ。福井藩主・松平慶永(春嶽)の側近として採用されます。

藩医として仕事する一方で、藩校・明道館で学監心得として後身の育成にはげみます。医者でもあり学校の先生でもあったのです。福井藩を知識の面から支える働きをしました。

やがて松平慶永とともに幕政に加わります。幕藩体制を維持しながら、西洋の進んだ文化や技術を取り入れる独自の考えを発表。当時としてはかなり進んだ考えでした。

同じような考えをもつ志士や幕臣たちから指示を得ました。

将軍跡継ぎ問題

幕末には幕府14代将軍を巡って争いがおきていました。

一橋家の一橋慶喜を支持する「一橋派」と紀州の徳川家茂を支持する「南紀派」に分かれていました。

松平慶永は一橋慶喜を次期将軍にしようとする一橋派でした。そのため橋本左内も一橋派として活動しました。

安政の大獄

安政6年(1859年)。南紀派の井伊直弼が大老になりました。

松平慶永が将軍問題に介入したことが問題にされ、一橋派は次々と捕まります。

安政の大獄です。安政の大獄とは単なる倒幕派の弾圧ではありません。将軍跡継ぎ問題で井伊直弼に対立した一橋派に対する弾圧でもありました。

橋本左内は謹慎処分となり、頼三樹三郎とともに斬首になりました。

享年26歳。若すぎる死でした。

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