服部半蔵・伝説の忍者となった武将の素顔

服部半蔵というと伝説的な忍者として有名ですね。

架空の存在ではなくて実在した人だといわれています。

皇居にある「半蔵門」はかつて江戸城の近くに服部半蔵の屋敷があったからだといわれるほど。

でも、実際の服部半蔵は私たちが知っている「優秀な忍者」とは違うようなのです。

実在の服部半蔵はどんな人だったのでしょうか。

服部半蔵は個人の名前じゃない?

実は服部半蔵と名乗った人は一人だけじゃないんです。
代々世襲される名前なんですね。
歌舞伎の世界で○○目市川団十郎とかいうのと同じ。

初代服部半蔵がいて、その後継者が服部半蔵と名乗ったんですね。

一般に知られている服部半蔵は二代目です。
二代目半蔵が徳川家康に仕えて有名になりました。

スポンサーリンク

二代目服部半蔵

正式な名前は服部 半蔵 正成(はっとり はんぞう まさなり)。
天分11年(1542年)生まれ。
父は伊賀国で忍びの頭領をしていた服部保長でした。正種であったという説もあります。

父の代に伊賀を出て松平家に仕えるようになったとも、正成が伊賀を出て松平家に仕えるようになったとも言われます。

正成は松平家の家臣として仕えていました。正成の父は忍びでしたが正成自身は武士でした。

槍を使った戦いが得意で「鬼半蔵」といわれるほどの勇敢な武将だったといわれます。

今川氏と戦った掛川城攻略。織田と浅井の争った姉川の戦い、武田と争った三方が原の戦いに出陣し、手柄を立てました。

天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が亡くなります。
当時、家康は信長に招かれて上洛していました。堺に宿泊中に本能寺の変が起きたことを知ります。堺から伊勢を抜けて三河に行くルートで帰ることにします。当時はわずかな家来しか連れていませんでした。いつ明智の兵が来るか分からないので急いで山道を逃げなければなりません。

このとき正成は親が伊賀の出身であったことから、伊賀や甲賀の豪族と話し合って道中の家康一向の護衛をさせました。伊勢の港まで武士送り届けてそこからは船で三河国・岡崎まで行きました。このとき、家康に同行した伊賀、甲賀の忍び達は伊賀衆、甲賀衆と呼ばれ徳川家のに仕えることになります。

スポンサードリンク

その後、正成は伊賀衆・甲賀衆を率いて家康の出陣した各地の戦で出陣しています。小牧・長久手の戦いでは伊賀甲賀衆が鉄砲を使い秀吉軍を撃退したこともあります。

天正18年(1590年)小田原征伐後それまでの功績から、正成は8000石を与えられます。伊賀同心200人が指揮下に入りました。

正成の屋敷は江戸城の門前にありました。この門が半蔵門と呼ばれることになります。伊賀越えの功績をたたえて半蔵門と名づけたとも言われます。

慶長元年(1596年)亡くなりました。