早川殿(蔵春院)は今川氏真と一生を供にしたおしどり夫婦だった?

今川氏真の正室は早川殿。蔵春院ともいいます。関東の戦国大名・北条氏康の娘です。

本当の名前は分かっていませんが、大河ドラマ「おんな城主直虎」では「」という名前で登場します。法名の蔵春院からヒントを得て付けた名前でしょう。

今川氏真とは政略結婚で結ばれましたが、5人の子供をもうけ。実家が対立しても別れることはなく生涯ともに暮らしました。当時としては珍しい夫婦です。

早川殿とはどんな人だったのでしょうか。

早川殿(蔵春院)とは

名 前:不明
通称:北川殿
法名:蔵春院
生 年:不明
没 年:慶長18年2月15日(1613年)
父:北条氏康 
母:不明・瑞渓院との説もあり。
子:娘(吉良義定室)、範以、品川高久、西尾安信、澄存

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同盟のため今川家に来た早川殿

父は相模国の戦国大名・北条氏康。母は氏康の側室だったといわれています。しかし氏康の正室・瑞渓院ではないかという説もあります。

天文23年(1554年)。今川義元の嫡男・氏真と結婚しました。

早川殿が今川家に来るまでは今川義元と北条氏康は敵対していました。今川義元が家督を相続するまでは今川家と北条家は同盟を結んでいました。しかし義元は家督相続後、甲斐の武田信虎と同盟を結び、信虎の娘を正室に迎えました。これには武田信虎と対立していた北条氏康が激怒。今川と北条は戦うことになります。10年近く争った後、和睦しました。今川家、北条家、武田家がお互いに婚姻関係を結ぶことで同盟関係になりました。いわゆる甲相駿三国同盟です。

三国同盟で北条家から今川家に嫁いできたのが早川殿です。駿河では長女(吉良義定の正室)を生みました。

永禄3年(1560年)。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死に。名実ともに氏真が今川家の当主となりました。

永禄元年(1568年)。武田信玄が同盟を破棄して駿河に攻めてきました。氏真は武田軍に敗退。駿府を奪われます。氏真は遠江国掛川城に逃れました。早川殿も氏真とともに逃れました。

今川家の危機

武田信玄の行いに早川殿の父・北条氏康が激怒。北条は武田との同盟を破棄して上杉謙信と同盟を結び、武田信玄と対立することになります。

掛川城に逃れた早川殿と氏真でしたが、遠江には徳川家康が攻めてきました。氏真は籠城して抵抗しました。

永禄2年(1569年)。氏真は徳川家康と和睦。掛川城を明け渡し、領地も失いました。戦国大名としての今川家が終わりました。

小田原での生活

早川殿と氏真は早川殿の実家を頼って落ち延びます。小田原の早川に移り住みました。駿河で産まれた娘も一緒だと考えられます。移り死んだ場所の地名をとって早川殿とよばれます。

小田原に移り住んだ氏真は駿河奪回を諦めたわけではなく、徳川家康と内通して武田信玄に対抗しようとしました。今川家から遠江を奪った徳川家康でしたが、共通の敵・武田信玄から駿河を取り戻すために手を組んだのでした。

元亀元年(1570年)。長男・範以が産まれます。

元亀2年10月(1571年)。父・氏康が亡くなりました。あとを継いだ北条氏政は武田信玄と同盟を結びました。そうなると今川氏真の存在が邪魔になります。

武田信玄が今川氏真を討つために兵を派遣しました。早川殿たちは逃げのびて無事でした。もちろん早川殿は兄弟の裏切りに激怒します。船を用意させて氏真とともに小田原を出ていったといいます。

12月。徳川家康を便り浜松に行きました。早川殿は家康の庇護のもと氏真とともに浜松で暮らしました。

天正4年(1576年)。次男(後の品川高久)を生みました。さらに、三男(西尾安信)、四男(今川澄存)を産みました。

天正18年(1590年)。氏真は京に移り公家や文化人と交流しました。早川殿も京についていったと考えられます。

長男・範以は京に滞在中に亡くなりました。次男・高久は徳川秀忠に仕えました。

慶長17年(1612年)。氏真に家康から江戸品川に屋敷が与えられました。子や孫たちも徳川家に仕え江戸で暮らしています。早川殿も江戸に移り住みました。

慶長18年(1613年)。江戸で亡くなりました。

戦国には珍しいおしどり夫婦だった?

政略結婚で一緒になった早川殿と今川氏真でしたが、生涯ともに暮らし5人の子供をもうけました。夫婦の仲は良かったようです。三国同盟では今川義元の娘・嶺松院は武田義信の正室。武田信玄の娘・黄梅院が北条氏政の正室になりました。しかしいずれも同盟決裂とともに別れています。

父・氏康の死後。北条家と今川家の同盟は破棄されます。このとき早川殿は小田原の実家にいたのですから、そのまま小田原に残るという選択はできたはず。実家を出れば無事に暮らしていけるかわかりません。でも早川殿は氏真と共に小田原を出てきました。夫の生命を狙ったのは武田信玄でしたが、それを認めた兄弟の氏政を許せなかったのでしょう。

氏真と対になって描かれた肖像画が残っており、夫婦仲は良かったようです。

実家が対立しても別れることなく、夫と暮らすことを選んだのはなぜでしょうか。父の方針を変えた兄弟の氏政が許せなかったのかもしれません。夫の今川氏真は戦国武将としては評価の低い人物ですが、文化人としては優れた人だったと言われます。婦人に対しても優しい人物だったのかもしれません。