本多正信・家康の最も信頼した重臣

徳川家康の重臣、本多正信。

家康の天下取りを知略で支え、徳川幕府二代将軍秀忠の側近としても大きな力を発揮しました。

大河ドラマ「真田丸」では近藤正臣が演じて早くも曲者らしさを漂わせています。
過去の大河ドラマでは「江・姫たちの戦国」では草刈正雄(真田丸では真田昌幸を演じます)が演じました。

家康は正信を「友」とよび、最も信頼した重臣といわれます。

本多家は徳川家とその一族意外に葵の家紋を使うことを許された唯一の武家です。
それほど重要な存在だったのです。

本多正信とはどういう人なのでしょう。

徳川家中での評判

三河武士は勇敢で戦場で強かったといわれます。
その一方で知略の得意な人が少ないともいわれます。
本多正信は三河武士には少ない知略家でした。

家康が天下を取るのを助けるために数々の策略を考えました。

おかげで味方のはずの徳川家家臣からは評判がよくありません。

武闘派の徳川四天王からは「腰抜け野郎。同じ一族でも奴とは無関係だ!(by 本多忠勝)、「腸の腐った奴 (by 榊原康正)」とひどい言われようです。

ちなみに、ドラマでは藤岡弘が演じる本多忠勝とは同じ一族になりますが、親子・兄弟ではありません。

本多正信の誕生から家康への反乱

本多正信は、古くから三河の松平氏に仕える本多氏の一族です。
天分7年(1563年)三河国で生まれました。家康よりも21歳年上です。
最初は鷹司(鷹狩りの鷹を訓練し、狩を行わせる人)として使えました。真田丸・第2話で鷹の世話をしていたのはそのことを表現しているのでしょうね。さすがに、家康の側近としてそばに仕えるようになってからは鷹の面倒をみる余裕はないと思いますが。でも、趣味として鷹を飼っていたかもと思うと面白いです。

「真田丸」は歴史好きが見ると「この場面は、あれをイメージしてるな」というのがところどころにちりばめてあって面白いです。

桶狭間の戦い(1560年)では今川家の一員として出陣、松平元康(後の徳川家康)をサポートしましたが脚を負傷しました。

桶狭間戦の後に松平元康は今川家から独立しますが、本多正信は松平元康に従います。

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一向一揆に参加

三河一向一揆(1563~1564年)では、松平元康に敵対します。
本願寺の勢力と、松平本家に対抗意識のある桜井松平家、今川家の残党などが手を組み三河国支配しようとする松平本家に対して反乱を起こしたのでした。
その一揆には松平本家に仕える武将も何人か参加しています。本多正信も一揆に参加した松平本家の家臣の一人でした。

一時は松平家の居城である岡崎城にまで一揆の勢力が迫りましたが、元康はこれを防ぎきると、反撃に転じて一揆を鎮圧します。

松平の家臣が一揆に参加したのは、信仰心が厚かったからです。主君に敵対したかったわけではありませんでした。だから徹底的に松平家と戦おうという気持ちになれず、鎮圧されてしまったんですね。元康は復帰したい家臣を快く受け入れ、松平家臣団の結束力は高まります。

この戦では元康は普段は従順な家臣も宗教の影響で敵対してしまうという怖さを感じたことでしょう。宗教は人を変えるというのを思い知ったんですね。そこで、元康は領内の本願寺勢力を他の宗派に変えさせると共に、一向宗の布教を禁止しました。

ところが本多正信は松平家に復帰することを拒否して逃走してしまいます。

その後は、大和の松永久秀に仕えます。
久秀は正信を高く評価していました。
「三河武士は武勇一辺倒だが、正信だけは違う。非常に優れた奴だ。 by松永久秀」
策略の得意なもの同士だけに、良さが理解できるということでしょうか。

でも、正信はまた放浪に出てしまいます。

その後は加賀の一向一揆に加わり、織田信長と戦っていたといわれます。

しかし加賀の一揆も鎮圧され、ようやく徳川家康のもとに戻ることになりました。

徳川家に復帰

いつごろ徳川家に戻ってきたのかは分かりません。
1580年に加賀の一向宗の拠点(尾山御坊・跡地は金沢城になります)が織田軍に攻め落とされたので、おそくともそのころには戻ってきたと思われます。

このとき徳川家の重臣・大久保 忠世が仲介して家康の許しを得たということです。

武田家滅亡後は徳川家が獲得した旧武田領を治め、積極的に旧武田家臣を味方に引き込みました。旧武田軍の精鋭を徳川軍の戦力とすることで後の徳川家の勢力拡大に大きく貢献することになります。

本能寺の変がおきると家康の伊賀越えに従ったという説もありますが定かではありません。

このころの本多正信は甲斐・信濃の国を治めるので忙しかったと思われます。

このあと、歴史は徳川家と豊臣家の対立、徳川幕府の創設と歴史は動いていきます。

正信の能力が発揮されるのはこれからです。