祝田禰宜・井伊谷徳政令をめぐり次郎法師(直虎)と争う

丸に橘

戦国時代に井伊谷で出された徳政令(井伊谷徳政令)には祝田禰宜が深く関わっていました。

井伊谷徳政令をめぐって次郎法師(井伊直虎)と争ったとされるのが祝田禰宜です。禰宜とは神主のことです。でも祝田禰宜は商人でもあったんです。なぜ神主が徳政令に関わってくるのでしょうか?なぜ神主が商人をしているのでしょうか?

祝田禰宜と徳政令にまつわる話、当時の神主事情について紹介します。

 

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祝田禰宜(ほうだねぎ)とは

禰宜(ねぎ)とは

この記事では祝田禰宜と書いていますが、禰宜は個人の名前ではありません。職業を現す言葉です。

神社には神主がいて祈祷や祭祀を行っています。神官にもいくつかの位があります。現在では偉い順に宮司・権宮司・禰宜・権禰宜となってることが多いで。一般的には宮司が一番偉いとされていますが、禰宜が一番偉い神社もあります。神社によって呼び方が違いますし、時代によっても呼び方が違うこともあります。古い時代には禰宜とは神職についている人の総称としても使われました。年齢が高く知識の深いベテランの神職を意味することもあります。

祝田禰宜の場合は祝田にある神社(蜂前神社)の神主という意味なのでしょう。おそらく年齢も高く影響力の大きな人だったと思われます。

 

蜂前神社(はちさきじんじゃ)とは

遠江国引佐郡祝田郷(静岡県浜松市北区)にある神社。蜂前神社のHPによると応神天皇の時代に造られた由緒のある神社です。”郷”というのは村がいくつか集まったようなもの。現在の”〇〇郡〇〇町”の”町”みたいなものです。

祝田郷の中には瀬戸村、都田村などがありました。蜂先神社は祝田郷の人々には大きな影響力を持っていたようです。井伊家も蜂前神社を信仰していたようです。小野家も祝田神社を信仰しており、小野貞久が領地を寄進したという記録が残っています。現在では井伊直虎関係の書状が残っている神社として有名になりました。”次郎直虎”の署名がある書状を所有しているのも蜂前神社です。

祝田禰宜とは

井伊谷徳政令に関わった祝田禰宜の個人名は伝わっていません。この記事でも祝田禰宜と表現します。

祝田禰宜は蜂前神社の神主でした。

蜂先神社の周辺には門前町が広がっており、市場が開かれていました。祝田禰宜は井伊家から市場を管理する権利を与えられていました。祝田禰宜の許可がなくては商いができないのですね。

武家は商人から兵糧や武具を買ったりします。祝田禰宜も商売を行っていたようです。井伊家に兵糧を納めていたのは祝田禰宜でした。

永禄9年(1566)。井伊谷に徳政令が出されます。ところが井伊谷を治めていた次郎法師(井伊直虎)は徳政令を実行しません。

永禄10年(1567)。なかなか徳政令が出ないことに業を煮やしたのでしょうか。今川家は井伊谷で徳政令が実行されるように今川家臣・勾坂直興に命じます。勾坂直興は井伊家家老・小野但馬守と話し合いを行い徳政令を実行させるための方法を考えました。祝田に影響力のある祝田禰宜も加わります。

今川家では勾坂が、井伊家では小野但馬守が、領民相手には祝田禰宜がそれぞれ徳政令を出すために動いていました。祝田郷の瀬戸村、都田村の百姓に今川家に徳政令を出す訴えを起こすように呼び掛けたとも言います。祝田禰宜は祝田郷を代表する立場にもあっったんですね。

永禄11年(1567)。今川氏真は重臣・関口氏経に命じて、次郎法師に催促の書状をを送りつけます。そして次郎法師は先延ばしにしていた徳政令をついに実行しました。祝田禰宜の活動が実った瞬間でした。

神社が市場を経営?

ところで神主が商売をしている聞いて不思議に思う人がいるかもしれません。でも当時は大きな神社が神職以外のことをして収入を得ているのは珍しいことではありませんでした。

現在でも神社仏閣は駐車場・保育園・賃貸物件などの経営をしているところはあります。氏子制度や檀家制度も廃れて収入が減っている神社仏閣は多いです。お賽銭やお札の売り上げだけでは生計が維持できませんから、収入を得ないといけないんですね。ちなみに現代の制度では宗教活動は無税ですが営利活動には税金がかかります。

戦国時代には氏子制度や檀家制度はありません。律令制度の時代、寺社は領地を持っていました。領地から入る年貢で生計を維持していました。寺社は地主だったんです。年貢で収入を得る制度は江戸時代が終わるまで続きます。明治になると領地は政府に没収されました。

しかし武士の時代になると武力で領地を奪われるようになりました。有力な武家がスポンサーにつけば領地を安堵(所有を認める)してもらったり寄進されることもあります。結局は権力者に翻弄される時代なんですね。

室町時代以降、貨幣の流通が盛んになりました。商売する人が増えます。そうなると年貢だけに頼るのではなく商売して収入を得ようと考える寺社が出てきても不思議ではありません。

戦国時代の寺社は商売や金貸しをして収入を得ている所もあります。井伊家の菩提寺である龍潭寺も領地から入る年貢を元手にして金貸し業を行っていました。井伊家が簡単に徳政令を認められなかった理由の一つとも言われます。

井伊谷徳政令をめぐっての諸説

祝田禰宜対瀬戸方久説

井伊谷徳政令をめぐっては様々な説があります。祝田禰宜などの古くからの商人と、瀬戸方久などの新しい商人の対立が背景にあるという説もあります。徳政令は借金棒引きです。金貸しをしている瀬戸方久ら金貸しは大きな損害を受けます。それを狙って祝田禰宜らが仕掛けたという説もあります。

でも瀬戸方久は次郎法師が徳政令を先延ばししている間に今川家と交渉しました。今川家に献金して徳政令が実行されても、方久が担保として預かっている土地は返さなくていいことになりました。

商人の対立という視点でみると祝田禰宜の目論見は外れたことになります。

今川直轄地化説

今川家が出した徳政令は井伊谷だけではなく今川家の支配する領地全体に出されています。徳政令は井伊家を狙い撃ちにしたわけではなかったようです。多くの地域では徳政令は実行されたようです。井伊谷では井伊家の事情があってなかなか実行されませんでした。今川家としては井伊家から支配を奪い取る絶好の口実になったのは間違いないようです。

今川義元の時代から国人領主を土地から切り離して領地を大名の直轄地にする考えはあったようです。直轄地化は織田信長が最初に行ったと言われることがありますが、今川義元の方が先に考えていました。

長期遠征となる戦に領主を何度も呼び出して、その間は今川家の送り込んだ目付や今川家に従順な家老に領地の経営をさせる。領主の影響力を落として最終的には直轄地化させる方針だったとも考えられます。氏真の時代に各地に出された徳政令は直轄地化を進める作戦のひとつだったのかもしれません。

井伊谷は今川家の直轄地化作戦がうまくいった例といえます。でも直轄地にして数か月後に今川家が滅んでしまったのは誤算だったかもしれませんね。

 

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL
入門神様と神社 (洋泉社MOOK)

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