井伊直平・年老いても元気な直虎の曾祖父

井伊直平は井伊直虎の曾祖父です。

今川家と戦ったものの今川家に降伏。娘を人質に出して服従することになりました。

でも内心ではこころよく思っておらず、支配から逃れたいと思ってます。息子や孫が次々に亡くなる井伊家にあって70歳を過ぎた晩年まで井伊家のために働いた直平。

大河ドラマ「おんな城主直虎」では今川家に対して激しい憎しみを持つ直平。なぜそこまで今川家に反抗的なのでしょうか。実は、直平の人生をみると長い長い今川家との対立があったのです。今川家に服従することになってもその記憶は簡単には消えません。

井伊直平とはどんな人だったのでしょうか。

 井伊直平(いい なおひら)とは

名前:井伊直平(いい なおひら)
通称・官名:修理亮(しゅりのすけ)、信濃守
生年:延徳元年(1489年)、または文明11(1479)
没年:永禄6(1563年)
父:井伊直氏
妻:井平河内守安直の娘
子:直宗、娘、直満、南渓、直義

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井伊家を相続した井伊直平

直虎の曾祖父。井伊家20代当主。永正元年(1504)。井伊家の家督を相続したと思われます。井伊家には分家がいくつかあります。直平は分家を束ね井伊谷を治める惣領となりました。

永正4年(1507)。井伊谷にあった自浄院に黙宗瑞淵を招き、臨済宗に改宗しました。寺の名前も龍泰寺と名を改めました。これが禅寺としての龍潭寺の始まりです。直平は龍潭時に領地三反(1反=300坪)を治めました。

直平が井伊家をそうぞくしたころ。遠江の支配をめぐって斯波義達と今川氏親が争っていました。斯波氏は遠江の守護です。今川氏は駿河の守護でしたが室町時代の初期には駿河と遠江の二か国を従えていた時期がありました。今川氏親は遠江をとりもどすため斯波氏と戦っていました。

斯波・大河内とともに今川氏親と戦う

直平の若いころ、おそらく1510年(1510)ごろには井伊直平は引間城の大河内貞綱とともに斯波義達にしたがって今川氏親と戦っていたと考えられます。

永正7年(1510)の末から年明けにかけて、井伊谷に北にある花平の陣が放火されます。今川の放った乱波素波(忍者)によるものでした。

永正8年(1511)。三岳城にあった井伊次良の館も焼き討ちにあいました。この井伊次良が直平のことだと考えられます。

永正8年(1511)から永正9年(1512)にかけて、井伊谷の南にある刑部で斯波軍と今川軍は戦いますが膠着状態になります。井伊直平も斯波義達とともに今川軍と戦いました。

永正9年(1512)。直平は、斯波・大河内とともに、今川の刑部城を囲みますが落城させることはできませんでした。4月の田植えの時期には堀川城のある下気賀を責めますが今川の反撃に撤退。閏4月には今川の居城・志津城を攻め城下町を焼き討ちしますが反撃にあい撤退します。

永正8年から10年にかけて斯波・井伊・大河内連合軍は今川軍と何度も戦いました。

永正10年(1513)。ついに今川氏親が出陣。三岳城は朝比奈泰以を大将とする今川軍の攻撃で落城します。三岳城は今川家臣の奥平貞昌が城代に任命され治めることになりました。

井伊家は居城を失います。ただし引間町史ではこのとき城に立てこもって抵抗したのは井平井伊家だったとされています。

直平は城を落ち延びて山間部に身を潜めた後、井平井伊家の領内に移り住みました。井平家は直平の妻の実家。直平の嫡男・直宗の妻も井平家の出身。井平家は直平と深いつながりがありました。

この後しばらく、井伊家は領地を失った時期が20年ほど続きます。

井伊直平とともに戦った斯波・大河内はその後も抵抗を続けます。
永正13年。斯波・大河内連合積んは今川に敗退。斯波義達は捉えられます。斯波家は今川と同じ足利一門だったことから処刑は免れますが出家させられ、部門としての斯波家は途絶えます。大河内貞綱は息子とともに処刑されました。

今川氏親亡き後の井伊家

今川氏親が亡くなり、跡を継いだ氏輝が継ぎましたが若くして亡くなると今川家で家督争いが起こります。栴岳承芳(義元)と玄広恵探の争った花倉の乱とよばれる争いです。

このとき、井伊家がどうしていたのかはわかりません。堀越家は恵探に味方しました。のちに井伊家は堀越家とともに北条に味方して今川に反旗を起こしています。そのことから、恵探派について承芳(義元)と対立していたのではという考えもありますが、記録がないので想像の域を出ません。

義元が家督をついでしばらくのことです。

河東の乱で北条氏綱に味方

天文6年(1537)。北条氏綱が東駿河に攻めてきました。今川家と武田家の同盟に怒ったためといわれています。

天文6年(1537)ごろ。氏綱は北条から見て今川の背後にあたる遠江や三河の領主に調略を行っています。北条氏綱が調略したのは堀越氏延や奥平貞勝のほか、井伊直平にも誘いが来ました。直平は北条氏綱の誘いに乗り今川に抵抗していたと考えられます。

ところが今川義元は北条に占領された東駿河を無理に攻めて取り戻そうとはしませんでした。今川義元と同盟した武田信虎が軍を出したこともあり。北条氏綱も東駿河から動きません。とりあえず北条の侵攻を食い止めると、義元は領内の安定を優先することにしました。そうなると駿河の西で抵抗していた勢力は鎮圧されていきます。

堀越家は今川家に攻め込まれ領地の多くを失ってしまいます。今川氏真の代になって堀越家は今川家を裏切りますが、このときから対立はあったのかもしれません。

奥平家は井伊家の三岳城の城代をしていた家です。貞昌が天文4(1535)年に死去、息子の貞勝に受け継がれました。北条氏綱と内通したのは貞勝です。貞勝は表立って今川に抵抗するようなことはしていませんが、三河で松平清康の勢力が強くなると松平家に寝返ります。

今川義元に服従

井伊家も今川家に服従を誓わされます。義元は人質を要求しました。直平は娘(おんな城主直虎では佐名)を人質に差し出します。直平の娘は義元の養妹となったあと関口刑部に嫁ぎます。その一方で、今川家は三岳城を井伊家に返し井伊谷を治めることを認めます。直平は井伊谷城を本拠地として井伊谷を治めました。義元は懐柔策と強硬策を使い分けて抵抗する領主たちを支配していきました。

井伊家は領地を回復する代わりに今川の家臣となることになりました。その時期はよくわかりませんが、天文7から10年の間だろうと思われます。

直平の孫でいずれ井伊谷を継ぐことになる直盛と今川家臣新野左馬之助の妹が婚姻させられ、新野佐間助も目付(監視役)として井伊谷に送り込まれます。

小野和泉守の父・小野兵庫助が井伊家の家臣になったのもこのころかもしれません。

今川に服従することになった井伊家には次々と今川からの要求が突き付けられます。

天文11年(1542)。織田信秀が西三河に攻めます。三河の松平広忠は今川義元に救援を求めました。義元は軍を出して織田軍と戦います(第一次小豆坂の戦い)。このときは井伊家は軍を出しました。ところが直平の後をついで井伊家当主なっていた直宗が討ち死にしてしまいます。

今川に抵抗していた井伊家は義元の三河進出では出兵を余儀なくされ消耗していきます。

直宗のあと井伊家を継いだのは直宗の嫡男・直盛。

大河ドラマ「おんな城主直虎」はこの時期から物語が始まります。

永禄3年(1560)。桶狭間の戦いのときには出兵した直盛に代わり井伊谷で留守居をしていました。しかし直盛が討ち死にします。

永禄6年(1563)。遠江で今川家に対する反乱がおきはじめます。北遠江の天野氏を攻めるため出陣しましたが討ち死にしたといいます。

また、「井伊家家伝」によると毒殺されたともあります。いずれにしろ、井伊家にとっては頼りなる年長者を突然失ったのでした。

多くの息子や孫がいましたが、多くが直平より先に亡くなってしまいました。晩年まで井伊家の長老として井伊家を支え続けました。

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL