井伊直親(亀之丞)・徳川四天王直政の父は親子二代で悲運の死

丸に橘
丸に橘

井伊直親は井伊直政の父。井伊家の分家でしたが、井伊宗家に男児がいなかったため、跡を継ぐことが決められました。早くに親を殺害され逃亡生活をするなど苦労の多い人物です。

井伊家を継いで直政を設けたものの自身も謀反の疑いで殺害されてしまいました。親子二代で小野一族の罠にはめられてしまうという悲運の武将です。

井伊直親とはどんな武将だったのでしょうか。

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井伊直親(いい なおちか)・亀之丞とは

 

 

名 前:井伊直親(いい なおちか)
通称・官名:肥後守(ひごのかみ)
幼 名:亀之丞(かめのじょう)
生 年:?年(年)
没 年:永禄5年12月14日(1562年)
父:井伊直満
妻:奥山朝利の娘
子:井伊直政、高瀬

 

父は井伊直満。1535年、遠江国井伊谷で生まれました。幼名は亀之丞。
井伊宗家には男児がいなかったため、井伊直盛の娘(後の直虎)の婿になることが決められました。

しかしその後、父・直満が今川義元に呼び出されて殺害されてしまいます。小野正直によって謀反の疑いをかけられ密告されたといわれています。直満の息子・亀之丞にも身の危険が及んだため。

直満の家老・今村藤七郎らの協力で井伊谷から逃亡しました。藤七郎は9歳の亀之丞をムシロにくるんで運び出したといいます。小野和泉守や追手たちに気づかれないようにするためだったのでしょう。

信濃への逃亡生活

藤七郎とともに逃亡する途中、坂田峠で弓で攻撃を受けました。大平村の地頭で、大平右近次郎という者でした。右近次郎は今川に従っていたといいます。直親と藤七郎は右近次郎から逃げ切りました。成長した直親はその時のことを覚えていました。井伊谷に戻る途中、大平村に立ち寄った直親は右近次郎を探し出して切ったといいます。右近次郎の墓は、右近がなまってオコノとなり「オコノ次郎」の墓として残っています。

亀之丞たちは追手から逃げ切って信濃国伊那郡松源寺にたどり着きました。松源寺にかくまわれて12年すごしたといいます。松源寺は南渓和尚の龍潭時と同じ宗派の寺でした。お寺は同じ宗派同士で交流があります。南渓和尚が人脈を使ってお寺に匿ったようです。他国の謀反人の子供を匿うのはお寺の判断だけではできなかったかもしれません。地元の領主への根回しも行ったのでしょう。松源寺の開祖・瑞郁の兄はこの地を治める松岡城の主・松岡貞利でした。貞利の孫の代になってますが、そんな縁もあったのでしょう。

直親が15歳を過ぎたころ。藤七郎が領主に亀之丞の元服を願い出ました。しかし当時の習慣では元服すれば結婚もついてくる時代でした。結婚相手は嶋田村の代官・塩沢氏の娘だったと言われます。

とはいっても元服や隣村の代官の娘と結婚するのは今村藤七郎と亀之丞だけの判断でできるものではありません。おそらく領主の松岡家の意志が働いていたのでしょう。当時の井伊家に亀之丞を守る力はありません。松源寺と松岡氏の好意で生きていける立場です。亀之丞は地元の有力者の提案を断ることはできなかったでしょう。

亀之丞が暮らした長野高森町には嶋田村の代官・塩沢氏の娘と結婚したと言われています。子供は一男一女か一男ができたと言われます。この時にできた子供が高瀬姫だったという説があります。

井伊谷に帰還

弘治元年(1555年)、小野正直が死亡。保護していた松岡氏は武田信玄の攻撃をうけてしまいます。井伊谷に戻っても命の危険がなくなったこと、潜伏先が危うくなったことから井伊谷に戻りました。

このとき直親は20歳になっていました。井伊直親の養子となります。やがて家臣・奥山朝利の娘を妻に迎え、祝田村の屋敷で暮らし始めます。井伊谷の本家で暮らさなかったのは今川家に井伊家の跡継ぎとして認められていなかったせいかもしれません。しかし今川義元から処刑しろと言われなかっただけでもよしとしなければならない状況だったのでしょう。

永禄3年(1560年)井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死しました。しかしすぐには井伊家の後を継げませんでした。中野直由が代理として井伊谷を治めました。この時点でもまだ井伊家の家督を継げる立場になかったのかもしれません。

嫡男・虎松(井伊直政)誕生

直親は井伊谷で結婚してしばらく子供には恵まれませんでした。永禄3年(1560年)には龍潭寺に参詣して男児が生まれるように祈願したといいます。そのかいあったのか永禄4年(1561年)男児が生まれます。井伊直平によって”虎松”と名づけられました。虎松は井伊直盛の幼名でもありました。

徳川家康に内通

永禄5年(1562)ごろ。井伊直親(亀之丞)は鹿狩と称して德川家康の収める三河領に出かけるようになっていました。今川氏真との仲が悪くなっていたともいわれます。直親は今川家を見限って徳川家につこうとしていたと考えられます。

この時期、徳川家康は三河国を統一していません。東三河は今川家の勢力にありました。三河国内でも一向一揆が発生し、家康は三河統一どころではなくなっていました。そんなときに今川家に攻め込まれたら防ぎきれません。そこで今川領の領主たちに調略を行い、反乱を起こさせようとしていたと考えられます。

今川氏真の命令で殺害される

永禄5年(1562年)、家老・小野政次が直親が謀反を企んでいると今川氏真に訴えました。氏真はただちに直親を処分しようとしました。直親と親しかった新野左馬之助が氏真に真相を確かめるように進言します。直親は氏真の命令で駿府に呼び出されることになりました。

駿府へ行く途中、遠江国掛川城下で朝比奈泰朝に襲撃され命を落とします。直親は謀反の意志がないことを表すため少ない兵で駿府に向かいました。その結果、朝比奈泰朝の攻撃に一方的にやられてしまう結果となります。

 

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直親の死がもたらしたもの

井伊直親の死が遠江の領主たちに伝わると、遠江ではますます反今川の気運が高まります。家康の調略で揺れ動いていた領主たちの中には今川に反乱を起こすものも出てきました。その結果、氏真は領内の反乱勢力の鎮圧にかかりっきりとなり、父の仇討ちどころか徳川家康の討伐もできない状態でした。直親の死は今川家の弱体化と三河国一揆で窮地に陥っていた德川家康に立ち直る余裕をあたえる結果となります。

井伊直政を召し抱えたとき、徳川家康は「自分のせいで命を落とした者の子だ」と言ったといいます。直親を犠牲にしたという想いは徳川家康の心の中にあったのかもしれません。

 

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL
井伊家のひみつ,ぴあMOOK

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