築山殿の母・関口夫人は今川家の人質となった井伊直平の娘

丸に橘

関口夫人は徳川家康の正室・築山殿(瀬名)の母。

今川家の重臣・関口親永(氏純)の正室です。

関口夫人は今川義元の妹といわれますが。養女の可能性もあります。

というのも井伊家が今川家に服従する証として人質として出された井伊直平の娘がいったんは今川家の養女になったあと関口親永(氏純)と結婚したといわるからです。

関口夫人は娘を出産。その娘が徳川家康の正室・築山殿(瀬名)です。

井伊家が徳川家とかかわるきっかけとなった女性といえるかもしれません。

築山殿(瀬名)の生母・関口夫人について紹介します。

 

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今川義元の妹 説

父:今川氏親
母:不明
兄:今川義元
夫:関口親永(氏純)
子:築山殿(瀬名)

一般に築山殿(瀬名姫)の母・関口夫人は今川義元の妹とされます。

つまり父は今川氏親です。

ところが記録で確認できる今川氏親の娘はそれぞれ吉良義堯・中御門宣綱・北条氏康・瀬名氏俊に嫁いでいて。関口親永と結婚した人物は見当たりません。

関口親永の実の兄・瀬名氏俊が今川氏親の娘と結婚したのと間違われたのではないかとされます。

今川義元の死後。松平元康が独立すると

永禄5年(1562年)。夫・関口氏純とともに切腹を命じられ自害しました。

 

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井伊直平の娘 説

父:井伊直平
母:井平河内守の娘
夫:関口親永(氏純)
子:築山殿(瀬名)

 

戦国時代の永正(1510)ごろ。井伊直平は遠江国の守護・斯波義達とともに今川氏親と争っていました。しかし斯波義達は今川に敗れてしまいます。斯波氏に従っていた井伊家も領地を奪われてしまいました。

今川義元の時代、遠江を安定して収めるために敵対していた領主でも服従するものには領地を返しました。当時の井伊家の当主・井伊直平も今川氏に服従し井伊谷を返してもらいます。服従する代わりに人質をだすことになりました。

人質となったのは井伊直平と井平河内守の娘の間に生まれた娘(ドラマでは佐名)です。当時は服従する家が人質として娘を輿入れさせることは珍しくありませんでした。しかも井伊家当主の直平には娘がいました。当然、直平の娘が人質として出されることになります。

その時期は天文7(1538)から10年(1541)の間だろうと思われます。このころ結婚適齢期だったとすれば、直平が30~40歳ころに生まれた娘ということになります。直平は子供が多いのであり得る話です。

井伊直平が娘を今川義元の側室に出した。といわれていますが、そのまま今川家にいたわけではありませんでした。義元の家臣・関口義広(親永)と再婚します。また別の資料では、一度・今川義元の妹にしたあとに関口義広と結婚した。ともいわれています。

低い身分の女性が格式の高い家に嫁ぐ場合、いったん身分の高い人の養女になって嫁ぐことがありました。井伊家は今川家に服従した国人領主(地頭)の家柄にすぎません。でも、いちど今川家の一員となれば、今川家の重臣の家にも嫁ぐことはできました。

関口氏は今川家の重臣です。今川家と縁のある女性が嫁ぐのにふさわしい家柄でした。

義広には二人の娘がいました。上の娘が松平元康(徳川家康)と結婚します。元康と結婚した女性こそ、松平信康を生み築山殿(瀬名)と呼ばれた女性です。

今川義元の死後。

娘の築山殿(瀬名)と結婚した松平信康が今川家と対立。

永禄5年(1562年)。夫・関口氏純とともに切腹を命じられ自害しました。

 

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ドラマの関口夫人

「おんな城主直虎」の佐名

おんな城主 直虎 2017年、NHK大河ドラマ 演:花總まり、役名:佐名

ドラマ「おんな城主直虎」では佐名は自分を人質に出した井伊家に対しても穏やかではない感情をもつ女性として描かれます。

当時は珍しくないできごととはいえ。現代人なら「家のためになんで私が犠牲にならないといけないの?」と思いたくなるシチュエーション。ドラマの佐名はまさにそんな女性として描かれることになりそうです。でも、心の中ではやっぱり実家のことが気になる。こっそりと実家の手助けをしてみたり。そんな複雑な内面をもつ女性として描かれます。

また、佐名の娘・瀬名(築山殿)は井伊直虎と友情で結ばれることになります。佐名の井伊家に対する屈折した気持ちは晴れる日がくるのでしょうか。

 

どうする家康の「巴」

どうする家康 2023年、NHK大河ドラマ 演:真矢ミキ、役名:巴

名門 今川家の出身。
娘の瀬名が格下の松平元康と結婚するのが嫌。最初は反対します。でも後によき理解者となります。

 

 

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