井伊谷三人衆(菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用)とは何をしたのか

丸に橘

徳川家康が遠江に侵攻した時、3人の部将が道案内したといいます。

その三人とは、菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用です。まとめて井伊谷三人衆とよばれます。

井伊谷三人衆は井伊直虎が注目される以前から知られれた存在でした。

一般には徳川家康が遠江を領地にしたとき、井伊谷三人衆が井伊谷を治めることになったといわれます。そこでは井伊家はすでになくなっているかのような扱いをうけています。

井伊谷三人衆とはどんな人達なのでしょうか。

 

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井伊谷三人衆とは

 

井伊谷三人衆とは、菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用の三人です。鈴木重時の子・重好、近藤康用の子・秀用を含めることもあります。

それぞれの説明についてはこちらの記事を読んで下さい。

菅沼忠久・家康に寝返るきっかけを作った井伊谷三人衆の一人

鈴木重時・重好。井伊家と徳川家に仕えた井伊谷三人衆のひとり

近藤康用・秀用、今川家から徳川に寝返った井伊谷三人衆

 

この記事では、井伊谷三人衆が徳川家康に寝返ってから井伊直政の配下になるまで。井伊谷の実質的な主として活動していたときのことを紹介します。

 

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井伊谷三人衆が徳川家康に寝返ったわけ

今川家や井伊家に仕える井伊谷三人衆がなぜ徳川家康に寝返ったのでしょうか?

井伊谷三人衆は井伊家の家臣と思われることもあります。実際に鈴木重時は奥山朝利の娘を妻にしていますので親戚になります。もともと井伊家に従っていたわけではありません。

近藤康用とはとくに井伊家とは縁はありません。

徳川家康と武田信玄は今川家を倒し、今川家の領地を分割する密約を交わしました。その密約では徳川家康は遠江を取ることになっていました。

そこで遠江進行をやりやすくするため遠江の領主を調略することにしたのです。

桶狭間の戦いのあと、いちはやく徳川家康に味方した部将に菅沼貞盈(すがぬま さだみつ)がいます。菅沼忠久と同じ一族です。

菅沼貞盈は徳川家康に菅沼忠久の調略を進言しました。家康の命令で菅沼貞盈は、菅沼忠久を説得。徳川家康の味方につけました。

菅沼忠久は妻の父である鈴木重時を説得。重時も徳川に寝返りました。鈴木重時は近藤康用を説得。こうして3人は徳川家康に味方になりました。

鈴木重時は井伊家とも縁があり、かつて井伊直親が徳川家康に寝返ろうとしていたことは知っていたかもしれません。

徳川家康の遠江侵攻を助ける

永禄11年12月13日(1568年)。徳川家康の遠江侵攻がはじまると、三人衆は遠江国内に徳川軍を案内しました。

12日に井伊谷三人衆に与える領地を書いた書状が発行されています。家康は井伊谷を井伊谷三人衆に与えました。本来なら井伊家に戻すべきですが。家康はすでに井伊家は取り潰しになっていた。だから小野但馬守が井伊谷の代官をしている。と思っていたようです。

三河から遠江に入るには浜名湖ぞいに走る姫街道を東に向かうのが最短距離です。しかし、浜名湖周辺は今川方の城も多く、抵抗にあいました。そこで徳川軍は浜名湖周辺を避け、内陸部を迂回しました。そして奥山氏の領地を通って井伊谷に入りました。

12月15日ごろ。家康が井伊谷に到着しました。

菅沼貞盈が井伊谷城を攻めると、これといった抵抗はありませんでした。小野但馬守は既に逃亡して井伊谷城にはいなかったのです。

家康は井伊谷に滞在することなく通過して南へ向かいました。刑部城を落としたあと、

12月18日。飯尾氏の残党が守る曳馬城を攻略しました。

12月末ごろから今川氏真と朝比奈泰朝が立てこもる掛川城の攻略に取り掛かります。しかし今川軍一の猛将・朝比奈泰朝の守る掛川城はなかなか落ちません。

早々と寝返った井伊谷三人衆と違い、遠江にも今川家に従って徳川に抵抗している人たちはいました。

堀江城の戦い

年が明けると後回しにしていた浜名湖周辺の攻略が始まります。

浜名湖周辺を守る重要な城、堀江城(静岡県浜松市西区)で戦いがはじまりました。堀江城を守る大沢基胤は総崩れになりつつある今川方でも激しく抵抗し続けた部将です。

この戦いでは菅沼忠久、鈴木重時、近藤秀用が徳川方として参戦しました。近藤康用は高齢と足を負傷していたため戦場に出ることができなかったので息子の近藤秀用が参戦しました。

ところが大沢軍の激しい抵抗にあって鈴木重時が討ち死にしてしまいました。

4月まで戦いは続きました。

徳川家康は今川氏真の立てこもる掛川城の攻略を早く終わらせたかったのでしょう。

大沢基胤に降伏すれば領地は安堵してやるとの条件で和議を申し入れ戦いを終わらせました。

小野但馬守を処刑

井伊谷三人衆は逃げた小野但馬守の探索を家康に願い出ました。

菅沼忠久の部下が都田で隠れ潜んでいた小野但馬守親子を発見して捕らえました。小野但馬守は徳川家康と体面。井伊直親が徳川家康と内通したので今川氏真に報告したといいました。

しかし、徳川家康は小野但馬守の話を否定します。小野但馬守の処刑が決定されました。

4月7日。井伊谷川の処刑所で小野但馬守を処刑しました。

5月7日。小野但馬守の息子二人を処刑しました。

仏坂の戦いで敗退

武田信玄と徳川家康に攻められ、今川氏真は逃亡。大名家としての今川家は滅びました。事前の密約どおり、駿河は武田信玄、遠江は徳川家康のものになりました。

永禄13年(1570年)。徳川家康は岡崎を息子の信康に譲り、曳馬に移り住みました。曳馬にを浜松と名を変え新しい本拠地にしたのです。

元亀3年(1572年)。ところが武田信玄が遠江に攻めてきました。

武田信玄配下の山県昌景の軍が東三河から遠江を襲いました。まず鈴木氏の本拠地・柿本城が落とされ、鈴木重好(重時の息子)は落ち延びて井平直成を頼ります。井平氏は井伊家の分家です。伊平城には菅沼忠久、近藤秀用も応援にかけつけ、山県軍との戦いになりました。

伊平直成と井伊谷三人衆は仏坂で山県軍と戦いました。山県昌景が相手では相手が悪すぎました。この戦いで伊平直成は討ち死に。伊平城も落城しました。山県軍はその後、井伊谷に入り、城下は山県軍によって焼かれてしまいました。

井伊谷三人衆は落ち延びて徳川家康のいる浜松城に向かい助けを求めました。しかし家康も三方原で武田信玄相手に敗退しました。しかし信玄は病に倒れ死亡します。井伊谷三人衆と徳川家康は助かりました。

井伊直政の配下になる

その後、井伊家の遺児・虎松を徳川家康が家臣にしたことで井伊谷三人衆の運命も変わってきます。徳川家康と井伊谷三人衆とその息子たちは井伊直政の配下となりました。しかし、井伊直政との仲は悪く、いずれも直政のもとを去っています。

井伊谷三人衆が井伊谷の主となっていた期間は長くはありません。もともと井伊家の地頭職解任によって転がり込んできた地位です。井伊直政の成長とともにその支配下に収まるのは必然だったといえるかもしれません。

 

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