幾島:天璋院篤姫に仕え大奥で派閥工作をすすめた老女

幾島(いくしま)は篤姫に仕えた御年寄格の女性です。
摂関家の近衛家に輿入れした郁姫に仕えたこともあるので、江戸や公家の作法に通じていました。

幾島自身も頭の良い声の大きな女性だったと言われます。大奥の侍女からは「ごぶごぶ」と言われ恐れられたという逸話もあります。

天璋院篤姫を支えた幾島とはどんな人だったのでしょうか。

幾島(いくしま)とは

名 前:朝倉 糸(あさくら いと)
通称・官名:幾島(いくしま)、藤田
生 年:文化5年6月18日(1808年7月11日)
没 年:明治3年4月26日(1870年5月26日)
父:朝倉孫十郎景矩
母:阿比留軍吾の娘

藤田として郁姫に仕える

幾島は薩摩藩江戸屋敷に奉公に来ていました。頭がよく機転が効き、肝が据わった女性だったといわれます。能力の高さを評価されて郁姫に仕えることになりました。

郁姫は9代藩主・島津斉宣の娘。斉興の養女となってお由羅に育てられました。郁姫は左大臣近衛忠煕と婚約、島津興子と名を変えました。

郁姫が近衛忠煕と結婚するため京に向かうと、幾島も京の近衛邸で暮らしました。当時は「藤田」と名のっていました。

嘉永3年3月(1850年)。郁姫が33歳で亡くなったため、出家して得浄院となのりました。郁姫の菩提を弔いつつ、近衛家に仕えていました。

幾島として篤姫に仕える

島津斉彬の養女・篤姫が徳川家定の正室になることが決まりました。外様大名の島津家からは直接輿入れできませんので、篤姫は近衛忠煕の養女になりました。

そのとき、得浄院として菩提をとむらっていた幾島は呼び戻され篤姫に仕えることになりました。幾島は江戸や京のしきたりに詳しく、頭の良い優秀な人でした。なにより近衛家と島津家に縁のある人物ということで選ばれたのでしょう。

この時、幾島は50歳近かったといいます。幾島と名のるようになったのはこのときからです。歳はとっていても背筋はのびて、よく通る大きな声で喋っていたといいます。白髪を染め、化粧をしていたといいますから実際の年齢よりも若く見えたのでしょう。

幾島の眉間には目立つ「こぶ」があったといいます。かなり目立つ人物だったようです。そのため侍女たちから「こぶこぶ」とよばれ恐れられていました。

篤姫が大奥に入るまでは教育係などをつとめてめていました。幾島は忠誠心の高い人でしたが、相手が姫様であっても甘やかすような人物ではなく厳しく指導するタイプだったといわれます。篤姫は最初は幾島に反発しますが、やがてうちとけていったといわれます。

篤姫は「いったいいつ寝るのだろうか」と思うほど献身的に仕えていたようです。

篤姫が大奥に入ったときは、幾島も近衛家家臣・今大路孝由の養女という身分にして大奥に入りました。付き人でもそれなりの身分が必要だったようです。大奥では御年寄の身分でした。

大奥では薩摩藩との連絡役も務めました。薩摩藩江戸屋敷の奥老女小ノ島と連絡をとりあっていました。大奥の情報は西郷吉之助を通して薩摩にも伝えられました。

一橋慶喜擁立のため大奥で根回し活動

徳川家定は体が弱く跡継ぎが望めません。そこで次の将軍を誰にするか話題になっていたのです。

島津斉彬は、水戸藩・徳川斉昭、老中・阿部正弘、福井藩主・松平慶喜らとともに一橋慶喜を次の将軍にしようと考える一橋派のひとりでした。

ところが大奥の人達は大の水戸嫌いでした。徳川斉昭が大奥に倹約を強く迫っていたので大奥では水戸に対する反発が強かったのです。当然、水戸出身の一橋慶喜に対する印象もよくありません。

将軍跡継ぎ問題は大奥が大きな発言力を持ちます。そこで一橋慶喜を支持する人達を増やすべく幾島は根回しを熱心に行いました。金を湯水のごとく使い、味方を増やして勢力を拡大しました。

篤姫が大奥に入ったのは一橋慶喜擁立のためと言われることがあります。実際には篤姫自身は一橋派を増やす活動はほとんどしていません。

もちろん御台所として将軍の跡継ぎ問題は重大なこととして考えていました。しかし篤姫は紀州徳川家の慶福(後の家茂)を気にいっており、むしろ慶喜を嫌ってさえいました。

篤姫があまりにも一橋派として活動しないので、幾島は近衛忠煕に愚痴を書いて送るほどでした。

しかし篤姫自身は表立って動かなくてよい、というのは斉彬の意向でもあったようです。そのぶん幾島が忙しく動き回ることになってしまったのです。

家定の生母・本寿院をはじめ、大奥の実力者老女歌橋も紀州の慶福を支持していました。大奥内では将軍生母の影響力は大きく、どうにもなりません。

安政5年(1858年)。徳川慶福が次期将軍に決まりました。結果として幾島の努力は報われませんでした。

跡継ぎ問題は奥だけでなく表の事情もあります。とくに老中・阿部正弘が死去したのが大きく響きました。井伊直弼が大老になったことでトドメを刺されます。

元治元年(1864年)。幾島は体調を崩します。しばらくは大奥にいたようですが、後に大奥を引退します。

慶応4年(1868年)。大奥に戻ってきました。戊辰戦争のときには天璋院篤姫の使者として幕府軍に天祥院の手紙を持っていったともいわれます。

明治3年(1870年)。東京にて死去。享年63。

鹿児島県の朝倉家墓地に埋葬されています。

大河ドラマの幾島

翔ぶが如く 1990年 演:樹木希林
篤姫 2008年 演:松坂慶子
西郷どん 2018年 演:南野陽子
斉藤由貴の予定でしたが降板、南野陽子が代役になりました。