今川氏真 大名の地位を失うもしぶとく生き残り文化人と生きた人生

今川氏真は駿河・遠江・三河の大名・今川義元の嫡男です。今川家最後の当主だといわれています。一説には、和歌や蹴鞠などの遊びにのめりこんで国を滅ぼした無能な武将のイメージが定着しています。親の敵も討たずに遊んでいた。なんていわれることもあります。

戦や外交的な駆け引きでは有能とはいえない武将だったかもしれません。でも実際にはただ遊んでいただけではなく、氏真なりに国内をまとめようとしていました。しかし父・義元を失った影響があまりにも大きくて、どうにもならなかったんですね。

今川家は氏真の代で大名ではなくなってしまいました。でも氏真は城を失った後も50年近く生きました。文化人として公家達と交流していたのを知っていましたか?今川氏真とはどんな人だったのでしょうか。

 今川 氏真(いまがわ うじざね)とは

名 前:今川 氏真(いまがわ うじざね)
通称・官名:彦五郎
法 号:宗誾
幼 名:龍王丸
生 年:天文7年(1538年)
没 年:慶長19年12月28日(1615年)
父:今川義元 
母:定恵院(武田信虎の娘)
正室:早川殿(北条氏康の娘)
側室:庵原忠康の娘
子:吉良義定室、範以、品川高久

父・今川義元は駿河、遠江、三河を治める大大名。母は武田信虎の娘(信玄の姉妹)。義元が家督をついだ後、今川家と武田家の関係改善のため行われた政略結婚でした。氏真は嫡男として生まれました。

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龍王丸は今川家由緒のある名前

氏真の幼名は龍王丸。龍王丸は義元の父・氏親や氏親の長男・氏輝の幼名です。父の義元は5男だったので龍王丸は名乗りませんでした。龍王丸は生まれた時点で今川家の跡取りと考えられる子供に付けられる由緒のある名前です。義元の長男ですから当然ですね。

和歌や蹴鞠の才能を磨く

京の都は応仁の乱から続く戦乱で荒れていました。荒れた都を嫌って駿府には公家が来ていました。当時の駿府は京の都以上ににぎわっていたといいます。今川家にも数々の公家が出入りします。歌会や蹴鞠が行われました。京から駿府に来て滞在した山科言継の日記にも19歳ころの氏真が登場します。義元の母・寿桂尼は京の公家出身です。山科言継の養母と姉妹でした。今川家で開かれる公家との歌会にも氏真は出席していました。

当時の駿府には和歌の大家・冷泉為和も来ており文化に優れた公家たちとの交流があった可能性はあります。そうした環境もあり、氏真は公家の文化に慣れ親しんでいました。

三国同盟で北条氏康の娘と結婚

天文23年(1554)。北条氏康の娘・早川院と結婚します。当時進めていた今川・北条・武田の同盟いわゆる「甲駿相三国同盟」の一環として行われた政略結婚でした。

しかし、氏真は早川殿との間に何人も子供をもうけており、氏真が駿府を追われた後も共に行動しました。政略結婚ですが、夫婦仲はよかったようです。

駿河・遠江国の主となる

永禄元年(1558)。氏真の名前で文書が発行されるようになりました。このころから義元から家督を譲られたようです。氏真が完全に今川家の家督を継いだわけではなくて、駿河・遠江の支配を任されたようです。義元は新しく領地にして不安定だった三河国の経営と尾張国の攻略に取り掛かりました。そのため、安定していた駿河・遠江の経営は息子に任せたのだと思われます。

父・義元の急死で家中に衝撃が走る

永禄3年(1560年)5月19日。尾張国に出陣していた義元が討ち死にしたとの報告が届きます。義元は2万5千の兵を率いて出陣していました。楽勝と思っていただけに衝撃が走ります。

西三河では家臣の松平元康(徳川家康)が今川の兵が退去した岡崎城に入ります。元康はしばらくは織田領を責めるなどしていました。はっきりと今川に敵対している様子は見せませんでした。

永禄4年4月(1561)。松平元康が今川領の三河国牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)に責めてきました。このときは撃退しましたが、この戦いで氏真は松平元康が裏切ったことを知ったといわれます。

松平元康が反乱、三河国を失う

「松平蔵人逆心」「三州錯乱」といって、氏真は憤りを覚えたようです。今川家としても元康は将来・今川の重臣となると思っていただけに衝撃が走りました。三河では今川につくか松平につくかで争いが起こります。

義元と重要な家臣を失ったばかりで、どうやって立ち直るかを考えていた時期でした。それだけに元康の離反は氏康には大きな衝撃でした。

永禄4年(1561)春以降。氏真は兵を出して元康と争いを繰り返します。

永禄5年正月(1562)。松平元康は今川家は織田家と同盟を結びました。完全に今川家とは縁を切ったことになります。

氏真は三河の国人領主に人質をだすように要求しました。しかしこれが反発を招きさらに今川離れが進みます。

永禄5年(1562)。氏真は牛久保城に出向き、一宮砦を責めましたが撃退されます。

永禄7年(1564)。吉田城(愛知県豊橋市今橋町)が元康に攻略されます。これで今川家は三河国を失いました。

遠江の混乱

今川家の動揺は三河だけにとどまりません。遠江国では井伊直親、飯尾連竜ら各地の国人領主が今川家から離反する動きが活発になりました。この遠江混乱を”遠州忩劇、遠州錯乱”と呼びます。

永禄5年(1562)。井伊谷の井伊直親が徳川家康と内通、今川から徳川に寝返ろうとしました。このときは直親を呼び出して処刑しました。

永禄6年(1563)。氏真は父の敵・織田信長を討つため1万8千の兵を連れて出陣します。この軍には遠江の領主も加わっていました。ところが三河国吉田城まできたところで、後方の陣から火の手が上がりました。裏切り者がでたものと勘違いした氏真は掛川城まで撤退してしまいます。最初に疑われたのは井伊谷城の井伊直平でしたが、無実とわかると次に疑われたのは曳馬城の飯尾連竜でした。

疑われた飯尾連竜は反乱を起こします。

永禄6年12月(1563)。氏真は飯尾連竜の曳馬城を攻めました。このときは連竜を討つことができず赦免します。

さらに中遠江の堀越氏延が反乱を起こします。武田信玄に調略されての反乱だったといわれます。堀越氏の反乱は鎮圧することができました。

北遠江の天野景泰も謀反の疑いを見せたため領地を没収します。さらに遠江各地で反今川の動きがみられたため氏真はその対処に追われていました。その裏には武田信玄や松平元康の働きかけがあったといわれますが、すべてが反今川で結束したわけではなかったようです。家督相続などのその家独自の理由でもめごとがあったものでも、氏真は怪しいと思えば処分していきました。

永禄7年(1564)までには遠江の反乱は収まります。

永禄7年5月(1564)。氏真は三河国吉田城を責めるため出陣します。ところが飯尾連竜が勝手に兵を連れて帰ってしまいました。今川軍と飯尾軍は浜松付近で小競り合いになります。飯尾連竜の反乱は徳川家康と内通していたためだといわれます。

氏真は今回も一旦は許したものの永禄8年12月(1565)に飯尾連竜を駿府に呼び出して処刑しました。謀反の疑いのあるものを呼び出して処刑するのは氏真がよく行った手段でした。

武田信玄が今川の敵になる

永禄8年(1565)。武田信玄の嫡男・義信が自害に追い込まれます。一説には今川との同盟を破棄した信玄に対して反対した義信が処分されたためだといわれます。

永禄4年(1561)の第5次川中島の戦いからこの時期までに武田信玄は方針転換し今川家との同盟を破棄していました。信玄の狙いは海(港)を手に入れることだったといわれます。そのためには日本海か太平洋に出る必要がありました。強敵の上杉と戦うよりも、弱体化した今川を討って太平洋側の領地を手に入れることにしたと思われます。

桶狭間の戦いの直後、氏真は武田信玄に使者を送り武田家との同盟が続くことを確認しています。しかし、永禄8年ごろまでには信玄は同盟の破棄を決めたようです。

永禄8年11月(1565)。武田義信の正室になっていた嶺松院(氏真の姉妹)が今川家に返されました。武田家と今川家の同盟を破棄するとの意思表明でした。

西からの脅威にさらされている氏真にとって武田信玄が敵に回ったことでさらに苦しくなりました。

そこで氏真は上杉謙信と和睦しました。今川、北条、上杉の同盟を結び武田に対抗しますが。武田信玄も織田信長、徳川家康と同盟を結び対抗しました。

戦国大名家としての終わり

永禄11年12月(1568)。武田信玄は駿河に責めてきました。

12月12日。薩埵峠で武田軍を迎え討ちましたが、駿河の国人領主が裏切りました。氏真は敗走します。駿府城は奪われ、氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城に逃げ込みました。おなじころ、徳川家康は遠江に攻めてきました。遠江は徳川家康に占領されました。氏真と朝比奈泰朝の立て籠る掛川城は徳川家康の軍に包囲されます。

同盟を破った武田信玄に対して伯父の北条氏康が援軍を送りました。氏康は薩峠に陣を置き信玄と戦いますが、武田軍の撃破にはいたらす膠着状態になりました。

さらに武田信玄は遠江まで攻めてきました。これに慌てたのが徳川家康です。武田が駿河、徳川が遠江を得る約束だったからです。

家康は氏真に和睦を持ちかけてきました。氏康は家臣の命を助けることを条件に城を明け渡しました。このとき、今川氏真・北条氏康・徳川家康の間で駿河から武田信玄を追い出したあとは、今川氏真が駿河の国主になるという約束をしました。

德川との戦いでは今川家臣の堀江城主・大沢基胤が徳川軍に包囲されました。基胤は氏真に降伏してもいいか許可を求めてきました。それに対して氏真は「降伏してもよい。今までの忠誠には感謝している」と返事を出しました。敵に降伏しようとしている家臣に礼をいう大名はめったにいません。氏真の人のよさが出ているようです。

北条家に身を寄せる

掛川城を出た後の氏真は、正室・早川殿の実家・北条家を頼りました。小田原に移り早川に住居をかまえました。

小田原では当時7歳の国王丸(北条氏直)を養子にします。国王丸が成人すると駿河国の相続権させるという条件でした。このときはまだ氏真に嫡男は生まれていませんでした。

小田原滞在中の氏真は武田信玄に対抗するために上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉の同盟を結びます。その間も今川家臣の岡部正綱や小原鎮実が武田に抵抗していました。一時的駿府城を奪回したこともありました。

北条氏康も兵を送りましたが、武田との戦いに敗退します。

駿河で抵抗していた家臣たちも武田の軍門に下ります。

元亀2年(1571年)。北条氏康が亡くなり、氏政が後を継ぎました。氏康と違って氏政は今川氏真を助けるつもりはありません。しかも武田と和睦を結びました。

徳川家に身を寄せる

12月。今川氏真と妻の早川殿は小田原を去り、徳川家康のもとに身を寄せます。国王丸の養子縁組は解消されました。

天正3年(1575年)。氏真は浜松を出発して京へ向かいました。社寺を参拝したり公家にあったりしています。また父の敵・織田信長とも会いました。このとき、信長が蹴鞠を見たいといったので蹴鞠を披露しています。

4月。武田勝頼が三河国長篠に進軍したことを聞くと三河に戻りました。牛久保で後詰をつとめています。長篠合戦後は敗残兵の掃討戦に参加しています。家臣で氏真に同行していた朝比奈泰勝(掛川城主だった朝比奈泰朝の息子)は長篠の戦いに参戦し手柄を立てます。泰勝は徳川家康の直臣に取り立てられました。

その後、氏真は牧野城主(静岡県島田市)の城主となりましたが1年足らずで浜松に呼び戻されました。

このころ、頭を剃って宗誾(そうぎん)と名乗りました。その後の記録は断片的にしか残っていませんが。浜松周辺に住んでいたと思われます。徳川家臣・松平家忠のもとを訪れたり、氏真宗と呼ばれる氏真の家臣達と家忠が交流している様子が記録されています。つまり、この時期でも氏真には付き従う家臣がいたとことになります。

天正11年(1583)。近衛前久が浜松を訪れたときは家康とともに同席している様子が記録されています。

天正19年(1591)。このころまでに京に移り住んだと考えられます。山科言経や冷泉為満、冷泉為将などの文化人と交流を深めました。公家の歌会に出席したり、古典を借覧・書写したりしていたようです。

慶長12年(1608)。長男・範以(のりもち)が京で死去します。

慶長17年4月(1612年)。駿府で大御所となった徳川家康と面会。品川に屋敷を与えられました。妻子とともに江戸で暮らしました。

慶長18年(1613)。長年連れ添った正室・早川殿が死去。
慶長19年(1614)。氏真も江戸で死去します。享年77。

氏真の評価

歌や蹴鞠にのめりこみ家を滅ぼしたとして評価の低い氏真。江戸時代中期にはすでに国を滅ぼした大名との烙印を抑えていたようです。

しかし、しぶとく生き続け公家や文化人と交流を深め文化人として息の長い活動をつづけました。

平和な世なら文化的な殿さまとして名前を残したかもしれません。しかし。戦国時代、しかも武田、織田、徳川といった強豪のひしめく激戦区で生き残るための素質は持ち合わせていなかったのでしょう。

氏真の子供たち

氏真は今川家最後の当主などといわれますが。それは大名家としての今川家。今川の名前と血筋は江戸時代も続きました。高家旗本という地位を手に入れ幕府にとって重要な役割を果たしたのです。高家とは儀式や朝廷のもてなしを司る家柄です。赤穂事件で有名な吉良上野介は高家筆頭です。今川家も重要な高家でした。

嫡男の遺児・今川直房は氏真が育て高家旗本になりました。今川家の直系は高家として続くことになります。直房は江戸幕府で朝廷との交渉を成し遂げ、左近衛少将の位を得ました。この位は何百年と続く今川家でも最高の位です。大名としては没落しましたが、高家の名門として今川家を復活させた直房は今川家中興の祖といわれています。いかにも氏真の子孫らしいといえます。氏真(義元)の血筋は文化的な活動で素質が開花するのかもしれません。

次男の品川高久は徳川家に仕え、1000石の旗本になりました。最初は今川を名乗っていましたが、徳川秀忠の意向で品川にちなんで品川と名乗るようになりました。長男・品川高如は高家旗本、次男・品川高寛は旗本になりました。