今村藤七郎・井伊直親を守った井伊家の忠臣

亀之丞を助けて逃亡する今村藤七郎。亀之丞が井伊谷に戻り、井伊家を継いで井伊直親となった姿を見て感涙する姿が印象的です。

大河ドラマ「おんな城主直虎」ではまるで下男のような格好ですが、井伊直満に仕える家老だったんです。もちろん家老といっても大名家の家老と違って、直満に仕える家臣の中で一番上くらいの位置づけです。

今村藤七郎は亀之丞の逃亡時代を支えた忠臣でした。その子孫も井伊家に仕えます。

今村藤七郎とはどんな人だったのでしょうか。

 今村藤七郎(いまむら とうしちろう)とは

名 前:今村正実(いまむら まさざね)、勝間田 正実
通称・官名:藤七郎(とうしちろう)
生 年:不明
没 年:天正10年(1582年)

名は正実(まさざね)といいます。生まれた年はわかりません。
もともとは勝間田の姓を名乗っていたといいます。遠江国三加野の出身だといいます。

勝間田氏は、室町時代には東遠江の国人領主でした。斯波氏のもとで今川氏と争っていました。
文明8年(1478)。勝間田城は今川義忠に攻められて、勝間田修理亮が討ち死にします。この争いで勝間田氏は滅亡したと言われています。義忠は勝間田氏と横地氏を攻めた帰り道。勝間田氏と横田氏の残党に襲撃され命を失います。義忠の子が龍王丸(今川氏親)。義忠の突然の死で今川家の家督争いがおこり伊勢新九郎(北条早雲)が飛躍するきっかけとなり戦国時代が始まったと言われます。

藤七郎はその勝間田家の生き残りです。勝間田家と同じように今川家と争っていた井伊家に身を寄せていたのでしょう。亀之丞を助けて逃亡生活をする前に今村に変えたといいます。勝間田を名乗っているとそれだけでも今川の手の者に詮索される可能性があるからです。亀之丞を余計な危険にさらすわけにはいかないとの配慮でしょう。

藤七郎は井伊直満に仕え、直満の屋敷の家老を務めていました。

天文13年(1544)。井伊直満が今川義元に呼び出されて駿府に行きました。藤七郎は井伊直満の屋敷で留守番をするとともに直満の息子・亀之丞を守っていました。

しかし、直満が処刑されたとの知らせが届きます。直満と同じ時期に駿府に行っていた小野和泉守は「亀之丞を処刑するように」との命令を持って井伊谷に戻ってきました。

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亀之丞を守って逃亡生活

藤七郎は9歳の亀之丞をかます(ワラで編んだ袋)に入れて担いで運び出しました。藤七郎は刺客から逃れて井伊谷の山中・黒田郷(浜松市北区引佐町)に隠れ住みました。直満の屋敷から約5キロメートルの距離にあります。しかし、そこにも小野和泉守の追手が迫ってきました。藤七郎は村人に「亀之丞は病死した。今村も自害した」という噂を流させます。

その間に龍潭寺の南渓和尚に安全な隠れ家はないか相談しました。南渓和尚は知人が住職を務める信濃国市田(長野県下伊那郡高森町)の松源寺に聞いてみることにしました。松源寺も南渓の龍潭寺と同じ臨済宗のお寺でした。松源寺の開祖・文叔和尚は信濃国松岡城主・松岡貞正の弟でした。文叔和尚は井伊直平の時代に井伊谷に招かれて自浄院(後の龍潭寺)の住職を務めたこともあります。そのような縁もあったのでしょう。

松源寺からの連絡が届く間、藤七郎と亀之丞は渋川(浜松市北区引佐町)の東光院で暮らしました。その年の年末年始は東光院に隠れたまま過ごしました。ひっそりと隠れたままでしたが、藤七郎は暖かいお吸い物を作って亀之丞と新年を祝ったといいます。

年が明けると松源寺から受け入れるという返事が届きました。しかし藤七郎は信濃国市田に行ったことがないので道のりがよくわかりません。そこで東光院の住職・能仲が道案内をすることになりました。

天文13年1月3日(1544)。藤七郎と亀之丞、能仲は東光院を出発。3人はまず井伊氏の氏神である寺野八幡神社(現在の六所神社)に詣でて安全を祈願しました。人目に付きいやすい街道を避けてきこりが通るような山道を歩いたといわれます。

途中、渋川の山中の坂田峠で大平の右近次郎に襲われます。右近次郎は弓の名人だったと言われています。亀之丞の乗る馬の鞍に矢が刺さったとも言われますが、3人は逃げ延びました。坂田峠という地名はなく、酒盛ダという地名が誤って伝わったものだといわれています。

信濃国で過ごした12年

3人は追手からも逃れ、信濃国松源寺(長野県飯田市)にたどり着きます。亀之丞と藤七郎は松源寺で暮らすことになりました。寺に匿われているといっても実際には領地を治める領主が保護しているのと同じでした。松源寺のある市田郷は国人領主の松岡氏が治めていました。当時の松岡城主は松岡貞正の孫・貞利でした。

亀之丞は松岡氏の保護のもと、松源寺で学問を習い、松岡城の武士から武術や馬術を習ったといいます。

亀之丞と藤七郎は12年間松源寺で暮らしました。

亀之丞が15歳を過ぎたころだと思われます。元服の話が持ち上がりました。当時の元服は結婚もセットになっていました。亀之丞は島田村の代官塩沢氏の娘を妻にしました。藤七郎と亀之丞だけの判断でできるものではありません。おそらく松岡氏の意向だと思われます。

当時は今川義元が三河国をめぐって織田と争い、勢力を伸ばしていたころです。強大になっていく今川氏があるかぎり井伊谷には戻れないと思ったかもしれません。

亀之丞は塩沢氏の娘と結婚しました。子供も生まれました。娘・高瀬と息子・吉直です。

天文23年(1554)。小野和泉守が死亡。少なくとも井伊谷には亀之丞の帰還を拒むものはいません。今川義元がどう判断するかが問題でしたが。信濃国は武田信玄に攻められていました。亀之丞の住む地域も武田軍の攻撃にさらされました。武田信玄の侵攻をうけて松岡氏は降伏。亀之丞は守ってくれるものがいなくなりました。そこで南渓和尚は亀之丞を呼び戻すことにします。井伊直盛の命令は奥山親朝を通して伝えられました。

井伊谷に戻る

天文24年2月(1555)。亀之丞と藤七郎は遠江井伊谷に戻ってきました。しかし、妻と男子は連れていけませんでした。今川義元は他国の者との縁組は認めていなかったからです。亀之丞はしかたなく妻と子供たちを残して井伊谷に戻りました。そのとき、まだ赤子だった男の子(吉直)に短刀を預けました。亀之丞はまだ幼い娘だけを連れて帰りました。

亀之丞と藤七郎はいきなり井伊谷に入るのではなく、渋川の東光院に入りました。井伊谷の様子を探って受け入れ態勢が整うまで一か月ほど待ちました。その間、亀之丞は右近次郎を探し出して成敗しました。

亀之丞は井伊直盛の養子となり、井伊直親と名を改めました。藤七郎の苦労が報われた瞬間でした。

井伊谷に戻った藤七郎はその後も井伊家に仕えます。

永禄5年12月(1562)。井伊直親が殺害されました。一説によると。この知らせを聞いた藤七郎は、小野但馬守の追手が来るかもしれないと思い同じく直親に仕えていた松下源太郎とともに、虎松と祐春尼(直盛の妻)を連れて逃亡しました。南渓和尚の力も借りて引間の井伊直平のもとに身を寄せました。年が明けて新野左馬之助のもとに身を寄せたと言われます。しかし直親死亡後の虎松の行方については諸説あるため不明な部分もあります。

天正10年(1582)。亡くなります。直親の息子・虎松が徳川家に仕官したのを見届けた後でした。

今村藤七郎の子孫

今村藤七郎の子孫も井伊家に仕えました。彦根藩藩主の正月の給仕は今村家の者が務めることになっていました。藩祖井伊直政の父を救い二人だけで暮らした正月を暖かいお吸い物でもてなした藤七郎の功績にちなんでのものです。

また井伊直親150回忌には藩主・井伊直興から今村忠右衛門に代参(藩主に代わって寺社にお参りすること)を仰せつかる名誉を受けました。