べっぴんさん・岩佐栄輔はVANヂャケット創始者・石津謙介がモデル

岩佐栄輔は連続テレビ小説「べっぴんさん」野上潔の弟分。坂東すみれに心をよせながらも失恋する朝ドラ恒例のヒロインに想いを抱くイケメン枠ですね。

岩佐栄輔のモデルは実在のファッションデザイナー石津謙介。石津謙介も日本のファッション界に大きな影響を与えた人です。1960年代に若者に大流行したVANジャケットの生みの親です。ファッション業界全体に影響を与えたすごい人なんです。VANや知らない現在の人やファッションに興味のない人でもVANが広めた言葉を知らず知らずのうちに使ってるんですよ。

石津謙介とはどんな人だったのか紹介します。

 岩佐栄輔ってどんな人?

潔と坂東営業部の再建を目指して戦後の荒廃した社会で奮闘します。
野上潔の弟分といえる存在ですね。潔と共にすみれの仕事も助けます。

戦争で妻子を失いました。
すみれと出会った当時、夫が帰ってきていなかったすみれに心を寄せていました。すみれの子供さくらも栄輔になついています。

すみれの夫・紀夫が戻ってきて、紀夫がすみれの仕事に協力するようになると姿を消します。
その後、若者むけ洋服店AISを設立。すみれと再開したものの生地をめぐってトラブルに。若者向けブランドを立ち上げようとしている野上潔にとってもライバルとなっていました。

石津謙介 VANヂャケット創始者

名前:石津謙介

生年:明治44年(1911年)
没年:平成17年(2005年)
生誕地:岡山県岡山市

岡山の紙問屋の息子として生まれます。
明治大学卒業後、実家の紙問屋を継ぎます。

昭和14年(1939年)、知り合いの大川正雄に誘われ妻子とともに中国大陸に渡ります。天津で、大川正雄・照雄兄弟の経営する大川洋行で働きます。紳士服などを取り扱う服飾関係の仕事をしていました。

佐々木営業部は天津と上海に昭和貿易(公司)という会社を持っていました。

尾上清は徴兵されて中国大陸に来ましたが、そのとき石津と尾上清は天津で出会ったそうです。同年代で豪快な尾上清は石津にとって兄貴のような存在だったといわれます。二人で上海の町で遊んだようです。尾上は兵役が終わると除隊し日本へ帰ります。

昭和19年(1944年)。戦争が悪化すると大川洋行をカネボウサービスステーションに売却。石津は他の社員とともに軍需工場に志願して働きました。

戦後、天津にやってきたアメリカ兵の通訳の仕事をしてアメリカのファッションを学びます。このときに影響をうけたアメリカのファッションが後にアパレルの仕事に役立ったといいます。 

昭和21年(1946年)。妻子とともに帰国。

昭和22年(1947年)。尾上清の紹介で石津は大川兄弟とともに有信実業に入社。
有信実業は尾上清が設立した会社です。会社と言っても小売店みたいな小さな組織ですが佐々木営業部再建の中心となりました。

昭和24年(1949年)。石津と大川兄弟は佐々木営業部が神戸に作ったレナウンサービスステーションを任されました。しかしレナウンの店は1年で閉店。建物は坂野通夫の提案でファミリアの店として利用されました。

石津と坂野惇子が直接面識があったかどうかはわかりませんが、佐々木営業部を通して多少の縁はあったということなんでしょう。少なくとも惇子の夫・坂野通夫は同じ時期に佐々木営業部で働いていたので仕事仲間だったはずです。

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VANヂャケット設立

その後、石津は自分達で仕事をしたいので会社を辞めさせてほしいといいます。
尾上清は認めました。石津は退職金はいらないから家がほしいというと。尾上は大阪で佐々木営業部の社宅として使っていた家を一軒、石津に譲りました。

昭和26年(1951年)。石津は佐々木営業部から独立。石津商店を設立します。
昭和29年(1954年)。株式会社ヴァンジャケットを設立。
VANブランドを発表します。
ブレザーとトダンダウンシャツをベースとしたスタイルを「アイビールック」として紹介しました。通訳時代に学んだアメリカのファッションからヒントを得たものだといわれます。

VANは、前衛、先駆を意味するヴァンガード(Vanguard)が由来です。

1960年代。アイビールックは当時の若者に大うけしました。
アイビールックで銀座のみゆき通りをたむろするみゆき族まで登場。ブームとなりました。

その後も若者向けファッションだけでなく警察、国鉄、日本航空の制服もデザインしました。

VANがファッション業界に与えた影響は大きく、「カジュアル」「トレーナー」「Tシャツ」という言葉を流行らせたのはVANだったといわれます。大規模な販売方法としての「キャンペーン」、特別な価値を持つ商品としての「プレミアム」という今では当たり前の販売方法を提案したのもVANだったといわれます。

VANの経営破たんとその後

昭和53年(1978年)。株式会社ヴァンジャケットが500億円の負債を抱えて経営破たんしました。

会社OBらによって昭和55年(1980年)株式会社ヴァンジャケット新社が設立。旧ヴァンジャケットの商標を引き継ぎました。その後、株式会社ヴァンジャケットとして活動しています。新ヴァンジャケットは1984年に再び倒産しました。2000年に復活。その後も活動を続けています。

VANの経営破たん後は石津健介はフリーのファッションデザイナーとして活動します。

無一文になった石津の生活を支えたのは尾上清でした。石津は尾上の会社から独立しましたが交流は続いていたようです。

MFU(日本メンズファッション協会)設立

昭和35年(1960年)。石津健介は日本メンズファッション協会(MFU)の設立の中心メンバーとなりました。

昭和47年(1972)。石津謙介の考案でベストドレッサー賞が始まりました。

TPO(時・場所・場合)という考え方を広めたのも石津謙介らのMFUです。石津たちは衣食住の新しい姿を提案し続けました。

フリーとなった後も日本メンズファッション協会の最高顧問を務めファッション業界に大きな影響を与えました。

平成17年(2005年)。肺炎のため東京都内の病院で死去。享年93。最後までファッションにこだわり、パジャマを着るのを拒否し三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取ったといいます。

石津健介はメンズファッションの神様とまで言われ、日本のファッション業界に革命を起こした人です。

「べっぴんさん」岩佐栄輔はVAN石津謙介とどう違う?

石津謙介は戦前は佐々木営業部で働いた経験はありません。
でも戦時中から尾上清(野上潔のモデル)と交流がありました。
石津は同年代で豪快な尾上清を兄貴分と慕っていたようです。
ドラマの岩佐栄輔と野上潔の関係に近いかもしれません。

石津には妻と三人の子供がいます。戦争でなくなることはなく、戦後は家族そろって日本に引き揚げてきました。

だから戦争で妻子を失って人妻に想いを寄せるというのはドラマのオリジナルなんですね。

ドラマでは岩佐は野上潔とともに坂東営業部の復活を向けて奮闘しています。

実際には石津が尾上清と再開したときには清は佐々木営業部の前身となる有信実業を立ち上げていたようです。その後の佐々木営業部の発展に尽くしたことは間違いありません。

ドラマでも岩佐は途中でいなくなってしまいます。石津謙介は後に自分の会社を立ち上げるために佐々木営業部を退社します。もちろん石津謙介は失恋したから退社したわけではありません。

尾上清は謙介のやろうとしている斬新なデザインの洋服が商売としてうまくいくのか関心があったようです。

ドラマの岩佐栄輔はAISという洋服ブランドを作りさくらや野上の前に現れます。AIS倒産後は野上の家に世話になりながら、野上達とともに新たな事業に取り組みます。

夫のいない間に惇子に会っていた男性がいた?

石津謙介ではありませんが、坂野通夫が戦争に行ってる間に坂野惇子に会いに来ていた男性はいます。

時期的には通夫がジャカルタに派遣された直後から惇子が神戸の家を離れるまでの間です。
会いに来ていた人は中塚良太郎といって大阪商船で坂野通夫と一緒に働いていた人です。中塚も徴兵されましたが、陸軍の航空本部に配属されました。戦時中も国内でいたようです。

大阪商船で同期だった通夫が海外に行くと聞いて、残された家族が心配で時々お見舞いに来ていたそうです。東京から神戸に戻ってくると惇子の家によって話し相手になるくらいだったようですが。それでも惇子にとっては心強いことだったのでしょう。

中塚が見舞いに行くと、惇子は「主人からの連絡がない」といって心配そうにしていたといいます。

中塚良太郎はのちに全日本ビルディング株式会社の社長になりました。

岩佐栄輔のモデルとは言えませんが、夫のいないすみれに会いに来る人がいた。というシチュエーションは似ています。