板部岡江雪斎とはどんな人?

北条鱗

北条家の役人・外交官として、他国の大名との交渉役として活躍した板部岡江雪斎。

博識で弁論に長け茶道にも精通していました。

北条家、豊臣秀吉、徳川家に仕えました。

板部岡江雪斎とはどんな人だったのでしょう。

 

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板部岡江雪斎とは

 

天分6年(1537年)、小田原北条家臣・田中泰行の息子として生まれました。名は田中融成。
執権・北条家の血筋を引いているといわれます。
相模国(神奈川県)の板部岡康雄の養子となり、板部岡を継ぎました。

出家して江雪斎と名乗ります。

学問に優れた人物で右筆や評定衆、寺社奉行を勤めました。

右筆(ゆうひつ・祐筆とも書きます)は秘書のような役目です。書類を作成、記録、保管したりします。外交文書には書式やマナーがあるので、あんまり詳しくない武将は専門知識のある人に代筆させることがありました。差出人は武将の名前でも自分で書いたのは花押(サイン)だけということもありました。戦国時代になって武将が領地を治めると書類を出すことが増えますし。他国に書状を送る回数も増えるようになると、いちいち自分で書いていられないので、右筆はますます重要な役目になります。
現在でも市役所で書類を発行してもらうと市長の名前が入っていますが、実際に作っているのは市役所の職員ですね。
宮内庁では皇族の名前の入った書類を発行することがあります。その文書を書いている人のことを祐筆と呼んだりもします。

評定衆とは、司法(裁判官)・行政(役人)・立法(議員)をあわせた様なもので大名家でなにかを決めるときに、評定衆の話し合いで決めます。大名はその意見を参考に決定します。

 

北条家の使者として、武田家や織田家、徳川家との外交を担当しました。

 

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北条から豊臣・徳川へ

 

北条家と秀吉が対立したときは、関係改善のために豊臣方と交渉しました。このとき、秀吉は江雪斎の働きぶりを気に入ったといいます。

秀吉の小田原攻めのあと、北条家が没落すると秀吉に仕えます。このとき姓を「岡野」に改めました。

秀吉の死後は徳川家康に仕えます。関ヶ原の前には小早川秀秋を説得し、家康の勝利に貢献しました。

慶長14年(1609年)なくなりました。享年73。

子孫は徳川幕府の旗本となりました。老中・水野忠成も岡野家の出身です。

 

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