金栗四三・日本初のオリンピック選手は日本にマラソンや駅伝を普及させた功労者

金栗四三は三島弥彦とともに日本で初めてオリンピックに参加した人です。

金栗はマラソンの世界記録を持っていました。オリンピック選手に選ばれ第5回オリンピック ストックホルム大会にマラソン選手として出場しました。ところが金栗は途中棄権してしまいます。その後も何度かオリンピックに出場しましたが満足な結果は得られませんでした。

しかし、金栗はめげずにマラソンや駅伝競走の普及と発展に尽くします。箱根駅伝を企画開催したのも金栗です。現在も続くマラソン・駅伝人気を作ったのは金栗だといってもいいかもしれません。

金栗四三とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 金栗四三(かなくり しぞう)とは

 

名 前:金栗四三(かなくり しぞう)
生 年:明治43年(1910年)
没 年:昭和58年月日(1983年)
父:金栗信彦
出身:熊本県和水町(くまもとけんなごみまち)

足腰を鍛えた子供時代

金栗四三は現在の熊本県和水町に産まれました。

10歳で玉名北高等小学校に入学しました。ところが、家と学校は6kmも離れていました。金栗四三は毎日走って通学しました。往復12kmの通勤が金栗少年の足腰を鍛えることになります。

明治43年(1910年)。東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学。徒歩部(陸上競技部)に入りました。子供のころから鍛えた金栗四三は運動選手としても抜群の能力を発揮しました。

オリンピック代表に決まるが出場辞退の危機

1911年。マラソンの国内大会に出場しました。世界記録を27分も縮める2時間32分という大記録で優勝しました。金栗四三はオリンピックの代表選手に選ばれました。

ところが当時はオリンピックへの世間の関心が低勝った時代。旅費などは自己負担でした。遠征には現在のお金で400万円が必要でした。しかし金栗は裕福ではなかったのでお金がありません。オリンピック出場の辞退を申し出ました。

ところが師範学校校長の嘉納治五郎は有望な金栗選手が辞退するのを残念に思いました。金栗をオリンピックに出場させるため募金集めをしてくれました。嘉納は遠征に必要な旅費を集めることに成功したのです。

オリンピックで棄権

金栗四三は陸上競技の三島弥彦とともに1912年オリンピックストックホルム大会に出場することになりました。

開会式では金栗が「NIPPON」と書かれたプラカードを持ち、三島が旗手を務めました。嘉納ら役員も続きます。

1912年7月14日。オリンピックのマラソンが始まりました。ところが当日は30℃を超える猛暑でした。金栗はスタートで出遅れましたが17位まで順位をあげます。しかし折り返し地点をすぎたころには激しい披露で日射病になってしまいました。26.7kn付近でコースを外れ林の中に消えてしまいました。コースを外れた金栗は意識を失い倒れてしまったのです。農民に助けられ翌日目を覚ましました。マラソン中に消えた金栗は地元では後々まで話題になりました。

しかしこのときのマラソンは出場選手68人中、34人が途中棄権するという過酷なレースでした。金栗だけが棄権したわけではありません。

三島も陸上競技の100m、200mに出場しましたが予選敗退。400mでは準決勝に進みましたが、右足の痛みがひどく棄権しました。

マラソン・駅伝の普及に尽くす

地元の期待を背負ってオリンピックに出場した金栗は大きな挫折を味わいます。しかし金栗はめげません。

大正8年(1919年)。下関・東京間役1200kmを20日で走破。
大正9年(1920年)。東京・箱根間往復駅伝競走(現在の箱根駅伝)を企画。無事成功させました。現在も続く箱根駅伝を企画・実施したのは金栗でした。

しかし、同じ年に開催された第7回オリンピック・アントワープ大会では16着。
30歳のときに出場した第8回オリンピック・パリ大会では32kmをすぎたところで棄権。

自身のオリンピック成績はよいものではありませんでした。

それでも金栗はマラソンや駅伝の普及に努力します。

昭和28年(1953年)。アメリカのボストンマラソンの監督になりました。この大会では山田敬蔵選手が世界記録で優勝しました。

55年目のゴール

昭和42年(1967年)。75歳になったとき、ストックホルムのオリンピック委員会から招待状が届きました。オリンピック55周年のストックホルク大会の記念式典でゴールしてほしいというのです。

3月21日。 ストックホルムに向かった金栗は、競技場をゆっくりと走りました。そしてゴールテープを切りました。走破タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。

「これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全種目を終了いたします。というアナウンスが競技場に流れ、観客から大きな拍手がわき起こりました。

金栗は「長い道のりでした」と答えました。

55年前、日本で初めてオリンピックに出場し棄権した金栗の心にはどんな想いがあったのでしょうか。

金栗四三は日本で初めてオリンピックに出場した選手です。自身の世紀期は満足できるものではなかったかもしれません。しかし金栗は大きな遺産を残しました。マラソンや駅伝の普及に努め、現在に続くマラソン・駅伝人気の基礎を作ったのが金栗四三なのです。

 

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