片桐且元・豊臣家に尽くし最後は敵になった悲運の武将

豊臣家に仕える、片桐且元。

賤ヶ岳の七本槍のひとりにも数えられますが。秀頼時代の重臣としての且元の方が知られているかもしれません。

豊臣家のために尽くしながら、最後は豊臣家を追われる立場となった且元。

豊臣家を裏切ったずる賢い奴という評判と、豊臣家を守ろうとした忠臣だったという正反対の評価があります。

なぜそんなに言われてしまうのでしょうか。
いったい、片桐且元とはどんな武将だったのでしょうか。 

 

片桐且元とは

 弘治2年(1556年)、近江国浅井郡で生まれます。
父は片桐直貞。浅井氏配下の国人領主でした。

浅井家と織田信長が対立すると且元は浅井家の一員として戦いました。

天正元年(1573年)、織田信長が浅井氏の小谷城を攻め、浅井氏を滅ぼします。
且元も小谷城の落城を経験したといいます。

やがて浅井氏に代わって北近江を支配することになった羽柴秀吉に仕えるようになります。
このころ石田三成ら近江出身武将が秀吉に仕官していますので、同じころだと思われます。

その後は秀吉の毛利攻めに参加。

信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦。活躍します。加藤清正、福島正則らとともに、賤ヶ岳七本槍のひとりにあげられました。

この功績で摂津国内に3千石の領地を与えられます。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも参戦します。

その後は前線で戦うよりも後方支援の役目が多くなります。

文禄4年(1595年)、摂津茨木1万石の城主となります。

文禄5年(1596年)の慶長伏見大地震のあと、大坂の町の復興にかかわりました。

慶長3年以降は大坂城番となります。
秀頼誕生後は傅役の5人に選ばれます。

秀吉の死後

秀吉の死後。
慶長4年(1599年)、秀頼が大坂城に入ると5大老も大坂にやってきます。
大坂に屋敷のなかった徳川家康は且元の屋敷に宿泊しました。
このころから家康との付き合いが始まります。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方します。
関ヶ原の戦いはさまざまな意味で国内を二つに分ける戦いでしたが、石田三成を中心とする文治派(役人タイプの武将)と福島正則、加藤清正らの武断派(軍人タイプの武将)の争いでもありました。

且元は大津城の戦いに軍を派遣します。
しかし関ヶ原では文治派の味方した西軍が敗れます。

その後は娘を家康の人質に差し出して、徳川と豊臣の交渉役を務めます。

家康には播磨国と伊勢国に持っていた領地6千石を差し出す代わりに、大和国竜田2万4千石を与えられます。家康から領地を与えられたことで、且元は家康の家臣になったという評価があります。しかしこの時期の家康は独断で領地を配分する力を持っており、豊臣家以外は全て徳川家の家臣といえる状況でした。

その後も且元は豊臣家のために働いたのでした。

幼い秀頼の代理として豊臣家の経営に携わります。
豊臣家の進める寺社復興事業に取り組み、豊臣家の直轄地の管理を行いました。

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運命の方広寺鐘問題

しかし、方広寺問題が且元と豊臣家を追い込むことになります。

慶長19年(1614年)。秀頼が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成しました。
普請の責任者は且元でした。

4月には鐘は完成しました。
家康は方広寺の進捗状況の報告を聞いていましたが、当初は関心を持っていませんでした。
しかし、開眼供養、大仏殿供養を同時に行うのは前例がないこと。天台宗と真言宗の対立が問題になりました。

7月18日。且元は家康のいる駿府城に行き開眼供養、大仏殿供養を午前と午後に分ける案を提案。家康の意思に従って金地院崇伝が二日に分けて行うように言いわたし、決着が付いたかに思えました。

しかし。
7月21日。家康は鐘の銘文に問題があること、棟上が吉日ではないことを問題にしました。

「国家安康」「君臣豊楽」。という文章が家康を呪うものだということです。

銘文を考えた南禅寺の僧侶・清韓は家康の名前を使ったことを認めました。戦国時代から江戸初期にかけては諱(本名)を使うことで偉い人への敬意を示すという習慣がありました。清韓はそのつもりで書いたのですが、家康はそれを呪いだとしたのです。

当時の豊臣家は武家としての実力はともかく、摂関家の格式を持ち江戸幕府の範囲外での行動をしていました。

家康もこの文だけで豊臣家を潰す口実にできるとは思わなかったかもしれませんが、方広寺の問題をうまく使えば豊臣家を従わせる手段にできると考えたのでしょう。

7月26日。家康は且元に延期するように命じます。
日程の延期については秀頼も認めます。
銘文問題について解決するため、且元は駿府を訪れます。しかし家康は且元に会いませんでした。且元の相手をしたのは家康の腹心・崇伝でした。

しかし家康は大蔵卿局とは会っており、そのときは鐘の件は問題ないとして友好的に接していました。豊臣方内部で疑心暗鬼を起こさせ、内部分裂を起こさせるという家康の巧みな作戦でした。

9月6日。崇伝と且元の話し合いの中で以下の案が出たといいます。

・秀頼を江戸・駿府に参勤させる。
・淀殿を人質として江戸におく。
・秀頼が大坂城を退き、伊勢または大和に退くこと。
このいずれかを選択するというものでした。

しかし、崇伝から家康を納得させる案を出せといわれた且元が独自に考えたという説もあります。

且元はこの案を持ち帰りますが、淀殿や強硬派の側近は激怒。且元を裏切り者扱いし殺害を試みます。且元は大坂を出て高野山に籠ると言い出しました。秀頼と木村重成が仲裁しますが、且元は大坂をでることを聞きません。これには重成ら秀頼派の側近も怒り出し結局、且元の改易が決定。
且元は管理していた米や金についての引継ぎをすませると、
10月1日、貞隆や石川貞政とともに大坂城を出ました。
且元たちは貞隆の城である摂津茨木城へ退きました。

片桐且元が改易され且元の屋敷が打ち壊されたことは家康に伝わります。

交渉の使者を追放したことは徳川に対して謀反を起こすつもりだと受け止められても仕方のないことでした。

もちろん、そうしむけたのは家康の巧妙な作戦でした。
もともとは方広寺問題は宗派の対立から起こったものでした。方広寺大仏殿の再建については、豊臣家だけでなく家康の援助で進められました。鐘の銘文についても事前に家康に届けており、その時には問題になってませんでした。式典をめぐって宗派間のもめごとに巻き込まれてメンツをつぶされた格好の家康は、豊臣家への言いがかりに利用。うまく豊臣家を内部分裂に持ち込むことに成功しました。片桐且元も豊臣方もまんまと家康の策にはまってしまったのでした。

家康は且元の追放を口実に豊臣秀頼討伐の命令を出しました。

こうして大坂の陣が始まります。

大坂の陣で豊臣家と対立

且元は家康の軍に参加。
砲術部隊に加わりました。
この砲術部隊には新型の大砲がありました。
家康が大坂城攻めのためにヨーローッパから取り寄せたものです。
最新式の大砲の弾は大坂城天守に直撃。死傷者を出します。
このことが淀殿を停戦に向かわせるきっかけになったとも言われます。
砲術部隊の一員として且元がいたとは皮肉なめぐり合わせです。

冬の陣のあと。
慶長20年(1615年)。1月、且元は隠居願いを出します。
家康に味方したとはいえ、自らの手で浅井の地を引く茶々親子を滅ぼすことにためらいがあったのでしょうか。

しかし、その願いは受け入れられません。

5月6日。大坂夏の陣では秀忠の軍に参加。
5月8日。大野治長が使者をよこして秀頼と淀殿の助命を訴えてきました。
且元はその訴えを秀忠に伝えますが、秀忠は却下します。

こうして且元は豊臣家滅亡の場に立ち会うことになるのでした。

大坂夏の陣の後。
以前より患っていた肺の病が悪化。
5月28日。今日の屋敷で亡くなりました。享年60。

且元の嫡男・孝利が竜田藩1万石を継ぎましたが、跡継ぎがなかったため断絶。
弟の片桐貞隆は大和小泉藩1万1千石の大名として残り、明治まで続きます。