毛利勝永・幸村の突撃を演出した大坂夏の陣影の主役

五七の桐
五七の桐

毛利勝永(もうり かつなが)は大阪の陣で最後まで戦った武将。
真田幸村(信繁)や後藤又兵衛と比べると知名度は低いかもしれません。
江戸時代から太平洋戦争が終わるまではもっと有名だったようですよ。
でも現代の作家はなぜかあまり取り上げないんですね。

実は彼らよりも活躍していたかもしれない武将なんです。

どんな武将だったのでしょうか。

 

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毛利勝永

 

天正6年(1578年)、尾張国で産まれたといわれます。近江国長浜で生まれたという説もあります。
父は森吉成(毛利勝信)、豊臣秀吉の家臣で黄母衣七騎衆の一人でした。
もともとの姓は森でした。秀吉から中国地方の大大名・毛利家と同じ毛利に変えるように言われました。

毛利勝永もかつては森吉政と名乗っていたようです。
吉政の「政」は肥前の大名・龍造寺政家から一字をもらったといわれています。
勝永の正室・安姫も正家の娘。龍造寺家とは親交があったようです。

生涯、吉政と名乗っていたといわれ、勝永の名前が確認できる当時の資料は見つかっていません。

勝永も父・吉成と同様に秀吉に仕えました。

天正6年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定後、豊前の規矩郡、高羽郡 6万石を森吉成に与えました。そのときに毛利姓に変わったということです。

吉成の与えらえた6万石のうち、1万石は勝永に与えられたものだといわれています。
吉成は小倉城を築城し居城とします。

天正16年(1588年)、毛利輝元の接待役となり能興行で太鼓を披露するなどしました。
天正18年(1590年)、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが来日した時には小倉で出迎えました。

慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に出陣。加藤清正らが籠る蔚山倭城をたすけるために、黒田長政らとともに明・朝鮮連合軍を撃退するなど手柄を立てました。

 

関ケ原の戦い

慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いでは父・毛利勝信とともに石田三成に味方します。父・勝信は領地のある九州で指揮を執り、勝永は中央で戦いました。
伏見城攻めでは手柄を立て毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増をうけました。しかし、自身も家臣を失いました。

 

関ケ原の戦いの前哨戦と言える安濃津城の戦いや関ケ原の戦いでは毛利軍に組み込まれました。大阪城にとどまる輝元の代わりに指揮をする安国寺恵瓊の指揮下で戦いました。

しかし肝心の毛利軍では吉川広家が徳川家康に内通していました。合戦当日は毛利家内部の混乱で、毛利勝永は活躍することができませんでした。

地元の肥前では父・勝信は黒田如水(孝高)に敗退。居城の小倉場を奪われていました。

毛利勝信・勝永親子は領地を奪われ、加藤清正、その後は山内一豊に預けられました。
山内一豊とは親交があり、一豊の妻・千代も助命を願い出たともいわれています。

土佐の山内家で1万石を与えられその地で生活したといいます。
勝永は高知城の北部にある久万村で暮らし、ときおり登城することがあったそうです。

慶長15年(1610年)、正室の安姫がなくなります。勝永は出家し一斎と名乗ります。
慶長16年には父、勝信が亡くなります。

 

大坂の陣

大坂に行くまで

慶長19年(1614年)、豊臣秀頼からの誘いで土佐を脱出し大坂に向かうことを決意します。

山内家は山内忠義が藩主となっていましたが、徳川家康に味方していることは変わりません。豊臣家への合流が認められるはずがありません。

そこで高知城の留守居役をしていた山内康豊に「大阪城の包囲を行ってる山内忠義に合流したい」と訴え出ます。

長男・毛利勝家を家に残し、次男・鶴千代を高知城に人質として差し出しだしました。康豊は勝永の申し出を信じて土佐を出ることを許しました。

しかし息子の勝家は船で脱出。勝永・勝家親子は豊臣家に合流してしまいまいた。これを知った山内忠義は激怒。見張り役の山内四郎兵衛に切腹を命じ、勝永の妻子は高知城に軟禁されました。

大阪へ向かうことを決意した勝永は妻子に対して「豊臣家には恩があるから、秀頼公に味方して大阪に行きたい。しかしそうすれば残ったお前たちは大変な苦労をかけてしまう」と涙を流し打ち明けました。

それに対して勝永の妻は「主君のために働くのは家の名誉です。残るものが心配ならば、私たちはこの島の波に沈み命を絶ちましょう」といって勝永を送り出しました。

大坂の陣のときには勝永がの最初の妻・安姫は亡くなっていました。逸話に出てくる妻が何という名前だったかは伝わっていません。

この逸話は明治から太平洋戦争中にかけて国民の教育に使われて、軍人の妻の手本とされました。

大阪城入り後の勝永

毛利勝永は豊臣秀頼の譜代の家臣ということもあり、大阪城内では大名並みの扱いを受けました。

大阪冬の陣では城の西北・今橋付近を守備しました。このあたりは最大の激戦となった真田丸を含む城の南側とは離れていました。そのため目立った功績は伝わっていません。

夏の陣は豊臣と徳川は和睦します。その後も豊臣と徳川の交渉は続いていました。
しかし、大坂城内では意見が分かれていました。

徹底抗戦を主張する強硬派:大野治房(治長の弟)、毛利勝永、長宗我部盛親
生き残るために譲歩は仕方ないという和平派:大野治長、後藤又兵衛
中間派:真田幸村、明石全登、木村村重

毛利勝永は強硬派だったといいます。

豊臣家が大坂城を出ていち大名となれば自分たちは解雇され行き場を失い餓死する。
それなら死ぬまで徹底的に戦おうというものです。

大坂城内では強硬派が主導権をとります。

活躍の場・大阪夏の陣

慶長20年(1615年)、再び始まった徳川との戦いでは前線で戦うことになりました。

大和方面から迫る幕府軍に対して、河内平野付近で迎え撃つ作戦が立てられました。

道明寺誉田の戦い

5月1日。先発として後藤基次の部隊が出発。続いて毛利勝永、真田信繁の部隊が出陣しました。

5月5日。河内国平野で毛利、後藤、真田の部隊は野営。翌朝、道明寺村付近で幕府軍と戦うことになりました。

しかし翌朝。後藤の部隊が先に行ってしまい。毛利、真田の部隊は遅れました。霧のため追いつけなかったともいわれますし、寄せ集めの部隊のためまとまった動きができなかったともいいます。

毛利勝永が道明寺に到着したとき、後藤隊はすで壊滅、後藤基次も戦死していました。勝永より早く到着していた明石全登2000の部隊は奮戦中。勝永は明石隊とともに幕府軍と戦います。なんとか戦線を持ちこたえました。

遅れて真田信繁が誉田村付近に布陣。

毛利隊3000、真田隊3000は先発した部隊の生き残りを合流させ幕府軍との戦いに臨みます。

毛利、真田隊が戦った幕府方の兵力は伊達政宗10000、本田忠政5000、水野勝成3800、松平忠明3800。総勢22000を超える大軍でした。その後ろにはさらに松平忠輝11800の軍も控えています。

片倉重長率いる伊達隊は3000を超える鉄砲を装備していました。後藤基次も鉄砲にやられたのでした。

誉田、藤井寺方面で真田隊が伊達隊と戦っている間、毛利隊は明石隊とともに本田、水野らと戦いました。

毛利、真田、明石らの働きにより、道明寺周辺では幕府軍と互角の戦いをしていました。しかし、八尾・若江方面で豊臣方が壊滅との報告が入ります。

毛利、真田隊は撤退を決意。真田隊がしんがりを務め大阪城へ撤退しました。

この戦いでは霧のため到着が遅れたことを悔やみ、もう運は尽きた落ち込む真田信繁に対して「ここで死んでも意味はない、右府(秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と言って慰めたといいます。

天王寺の戦い

翌5月7日。大阪城を出た勝永ら豊臣方は天王寺付近で対峙します。
毛利勝永は天王寺に布陣、真田信繁は茶臼山に布陣しました。豊臣方の先頭に立ち幕府軍とぶつかりました。

作戦はまず天王寺付近に敵をおびき寄せ戦っいる間に、明石全登隊が迂回して敵本体をたたくというものでした。

毛利勝永隊は近づく本田忠朝隊と交戦に入り大軍同士の先頭に突入します。幕府軍には浅野長重、秋田実季、真田信吉(信繁の甥)、小笠原秀政、保科正光、榊原康勝らも加わり。勝永の隊に襲い掛かります。

この戦いで幕府軍の本田忠朝が戦死。忠朝は冬の陣での失態を挽回すべく討ち死に覚悟の突撃でした。しかし一軍の将が打ち取られたことは幕府軍に動揺を与えました。

勢いづく毛利隊は小笠原秀政も打ち取ります。秀政も討ち死に覚悟の突撃でしたが、大名クラスの武将の相次ぐ討ち死には幕府軍に動揺を与えます。その他の幕府軍を撃退、配送させ毛利隊も徳川家康本隊に攻撃を始めます。

真田信繁はその隙を突き突撃を繰り返し。徳川家康の本陣に迫ったのでした。
毛利隊の役目はおとり役と決まっていました。もっと幕府軍を引き付けておけばという意見もありますが、信繁の突撃があそこまで見事に決まったのは毛利勝永らの働きがあったからこそです。

しかしここで誤算が生じます。豊臣秀頼の出陣が遅れたため、出陣を求めるため大野治長は城へ引き返しました。それを見た味方の兵が治長が逃げたと勘違いして混乱してしまいます。

真田隊も相次ぐ突撃で消耗し、信繁は打ち取られました。
体制を立て直した幕府軍により、15時ごろには豊臣方は壊滅状態になります。

それでも毛利勝永は豊臣方で唯一戦場でまともに戦える部隊として奮戦していました。しかし他の部隊は壊滅。勝永はもはやこれまでと判断。残った兵をまとめて大阪城に引き返しました。

撤退する際も、襲い掛かる藤堂高虎隊を撃退し、井伊直孝、細川忠興らの攻撃をしりぞけ、味方を城内に撤退させました。

勝永の最後

残った豊臣方は大阪城に籠って幕府軍を迎え撃ちます。しかし、幕府軍が場内に突入が始まると、豊臣方の浪人達まで略奪を始めました。間者によって火がはなたれ大阪城は炎に包まれます。

もはや城内にも敵が入り乱れる状態でした。毛利勝永は豊臣秀頼、淀殿親子を護衛して安全な場所に移します。
その後、勝永は秀頼の介錯を務めた後、息子の毛利勝家、弟の山内勘解由吉近とともに自害したのでした。

 

大坂の陣のあとの妻子たち

大坂の陣ののち勝永の妻子は京へ送られ次男・太郎兵衛は処刑。妻と娘は命を助けられ土佐に戻されました。

 

時代で変わる毛利勝永の評価

 

毛利勝永は戦場で戦った黒田長政も称賛し、宣教師の報告でも真田・毛利の奮闘が伝えられるほど有名でした。江戸時代から戦前までは真田幸村、後藤又兵衛とともに知名度があったのです。

しかし、毛利勝永が大坂に出る前に交わした妻との逸話が軍国主義の宣伝に使われた印象があったためでしょうか。

太平洋戦争後、真田幸村が権力に反抗した「反骨の将」としてまつりあげられる一方で、作家やメディアは毛利勝永を取り上げれることを意図的に避けました。

いつしか毛利勝永の活躍は忘れ去られ、真田幸村だけが活躍したかのような伝説が広まりました。

むしろ真田幸村の作戦(茶臼山で徳川軍を待ち伏せて真田丸の戦いの再現を狙い、その間に他の部隊が家康本陣を狙う)を失敗させた張本人のような扱われ方をされています。

幸村は待ち伏せ作戦ができなくなったので仕方なく突撃したところ家康の本陣まで迫ることができた。もっと徳川軍を引き付けていれば幸村の突撃が成功したのに。というのが現代の幸村伝説の主な内容です。

でも、実際の真田信繁がそのような作戦を立てたか定かではありません。

むしろ信繁は小高い茶臼山に陣取って家康本陣の場所や戦況を確認。毛利、大野治房らの部隊が徳川軍を引き付けてる間、突撃できそうなタイミングを見計らっていた。できると判断したら家康本陣目指して突撃。できるだけ戦力の消耗を避けて家康本陣をめざした。とも言われています。

本当のところはわかりません。
いずれにしても信繁が突撃している間、幕府の大軍と戦っていたのは毛利勝永たちです。

幸村伝説の裏には真田信繁の突撃ができるようにした毛利勝永ら大勢の武将たちの奮闘があったのでした。

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