近藤康用・秀用、今川家から徳川に寝返った井伊谷三人衆

徳川葵

 

近藤康用は井伊谷三人衆の一人。今川家の家臣でしたが徳川家康に味方しました。

家康の遠江侵攻をたすけたことで井伊谷を与えられます。井伊家に代わって井伊谷を治めました。子の秀用は井伊直政の配下になりましたが、直政とうまくいかずに井伊家を出て行ってしまいました。その後、井伊谷藩の藩主になります。

近藤康用・秀用親子について紹介します。

 

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 近藤康用(こんどう やすもち)とは

名 前:近藤康用(こんどう やすもち)
通称・官名:勘助、平右衛門、石見守
隠居後:信用 → 全功
生 年:永正16年(1517年)
没 年:天正16年3月12日(1588年4月7日)
父:近藤忠用
妻:黒田久綱の娘、鈴木六郎三郎の娘
子:秀用ほか

 

近藤家は今川家の家臣でした。

松平清康が三河国宇利城(愛知県新城市中宇利)を攻めたとき、康用の祖父・近藤満用が清康に味方しました。近藤家は松平清康に仕えることになり宇利城主となりました。

しかし清康の死後、松平家は勢力を失うと近藤家は今川家に仕えました。康用の父・忠用は今川義元に仕え、康用も義元に仕えます。

永禄3年(1560)。桶狭間の戦い後、徳川家康に従ったこともありましたが。
永禄4年(1561)。鈴木重勝に説得されて今川氏真に仕えます。

永禄11年(1568)。菅沼忠久に誘われて鈴木重勝とともに今川家から徳川家に寝返ります。徳川家康が遠江に攻めてくると近藤家も鈴木重勝、菅沼忠久らとともに徳川軍に参加ました。このときは高齢で足が不自由だったため代わりに子の秀用が出陣しました。

秀用は鈴木重勝らとともに徳川軍の先方を務め、小野但馬守が守る井伊谷を攻め落とします。しかし小野但馬守は城にはいませんでした。康用らは4か月も但馬守を探します。但馬守を見つけたのは康用の配下でした。捕まった但馬守は二人の子供とともに処刑されました。

井伊谷跡職、二左衛門跡職を領地として与えられます。以後、鈴木、菅沼とともに井伊谷三人衆として井伊谷を治めます。

家康が遠江統一後は、武田に対する備えとして三河柿本城(愛知県新庄市)を守ったこともあります。

元亀3年(1572)。武田軍が井伊谷に攻めてきました。井平城(静岡県浜松市北区引佐)を守っていましたが敗退。浜松まで退却します。

晩年は数々の戦で受けた傷がもとで歩くことが難しくなりました。出家して信用 のちに 全功と名乗ります。

天正16年(1588)。隠居していた井伊谷で亡くなります。享年72。龍潭寺に葬られました。

 

 

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近藤秀用

 

名 前:近藤秀用(こんどう ひでもち)
通称・官名:勘助、平右衛門、石見守
生 年:永正16年(1517年)
没 年:天正16年3月12日(1588年4月7日)
父:近藤康用
子:季用ほか

今川家に仕えていましたが、父・康用とともに徳川家康に寝返ります。家康の遠江攻めでは戦場に出ることが困難だった父・康用に代わって出陣しました。徳川軍の先方として井伊谷を攻めて、小野但馬守が籠る井伊谷城を落としています。

その後、徳川家康に仕え、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原征伐などで活躍しました。

井伊直政が徳川家康の家臣となると、家康の命令で直政の配下になります。しかし秀用は直政とうまくいかず、直政のもとを離れたいと考えていましたが許可が出ませんでした。とうとう家康の許可がないまま井伊家を出てしまいました。秀用の行動に家康が激怒。しばらく放浪生活を送ります。

慶長7年(1602)。井伊直政が死去すると徳川秀忠に雇われ上野国青柳に5,000石の所領を与えられました。

慶長8年(1603)。池田輝政の仲介で、ようやく家康の許しが出ました。

慶長19年(1614)。相模国で1万石を与えられ、小田原城の城番となりました。
大坂の陣にも参戦して活躍します。

元和5年(1619)。遠江国引佐郡井伊谷1万5000石を与えられました。井伊谷藩の藩主になります。

元和7年(1621)。2,000石加増されました。

寛永8年(1631)。亡くなりました。享年85。秀用の死後。所領は分割され井伊谷藩は消滅。子孫は旗本になりました。

 

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