高台院(寧々・於寧)・秀吉と二人で作った豊臣家

五七の桐
五七の桐

豊臣秀吉の正室・北政所(寧々)。

母の反対を押し切り貧しい足軽の藤吉郎と結婚し、二人で豊臣家を作り上げました。

豊臣家内でも大きな影響力のある女性で、豊臣家の家臣からも慕われる存在でした。

秀吉の死後は、世の中の平和と豊臣家(羽柴家)が残ることを願った高台院。

どのような人生だったのでしょうか。

 

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ねね・おね・おねい?本当の名前は?

高台院は秀吉没後に出家したときの名前。
北政所(きたのまんどころ)というのは公家の正室の呼び名。つまり、秀吉が関白になって以降の呼び方。歴史上、北政所と呼ばれる人は、高台院だけではありません。でも一般には北政所と言えば高台院のことになります。

本名は一般には 寧々(ねね)と言われてます。

本名は 寧(ね)一文字。という説もあります。
通称は、於(お)をつけて於寧(おね) と呼びます。
1996年の「秀吉」よりあとの大河ドラマでは、
原作のある「巧妙が辻」をのぞけば、於寧(おね)説を採用しています。

寧の字を ねい と発音するのではないかという説もあります。
大河ドラマ「真田丸」では 寧(ねい)説を採用しています。

 

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寧々(於寧)の生い立ち

尾張国に生まれます。生年は分かりません。
父は織田信長に仕えた武将・杉原定利。母は朝日殿。
兄・木下(杉原)家定、姉・長慶院(くま)、妹・長生院(やや・浅野長政正室)がいます。

ややとともに子供のいなかった叔母・ふくの嫁ぎ先・浅野長勝の養女となります。

浅野長勝は尾張国海東郡の武将。

永禄4年8月(1561年)。木下藤吉郎と結婚。
寧々は14歳だったと言われます。
実の母、朝日殿の反対をを押し切っての結婚でした。
当時としては珍しい恋愛結婚だったのです。
ふくと長勝は賛成していました。
秀吉の母・なかとは仲がよかったようです。

当時の藤吉郎はまだ足軽。長屋暮らしの質素な生活でした。

このころ同じ長屋で暮らした前田歳家・松とも親しかったようです。
松(芳春院)とは亡くなるまで親しい関係は続きました。

 

永禄11年(1568年)ごろから、美濃国岐阜に移り住みます。
このころ秀吉は信長に付き従って京にいることが多かったといいます。

子供のいなかった寧々は加藤清正や福島正則などの親類の子を引き取って育てました。

天正2年(1574年)。秀吉は近江長浜12万石の大名となります。寧々となかも長浜で暮らすようになります。

このころも秀吉は中国遠征などで長浜にいないことが多く、事実上の城主として夫の留守を守ってました。

このころ山内一豊の正室・千代(見性院)とも親しくなりました。

天正10年(1582年)、明智光秀が謀反を起こし、本能寺で織田信長が亡くなります。長浜城にも明智方の軍が攻めてきたので大吉寺に避難しました。

 

 

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北政所(きたのまんどころ)時代

 

大坂城完成後は、秀吉と共に大坂城に移り住みます。

天正13年(1585年)、秀吉が関白となると、寧々は北政所と呼ばれます。

朝廷との交渉をし、人質として集めた諸大名の妻子の面倒を見る立場になりました。

天正16年(1588年)、後陽成天皇を聚楽第にむかえました。その後、北政所は従一位の位を授けられます。そのとき「豊臣吉子」の名前が使われています。

文禄2年(1593年)からの朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、国内の拠点となった名護屋(福岡県)と大坂の物資の輸送には北政所の許可(黒朱印)が必要な体制になりました。

慶長3年(1598年)、秀吉が亡くなります。
淀殿とともに豊臣秀頼の後見人となります。
福島正則らが石田三成を襲ったときには、仲裁を行いました。

慶長4年(1599年)、淀殿と秀頼が大坂城に移ってくると、大坂城を出て側近の孝蔵主と共に京都新城へ移り住みました。京都新城とは秀吉が聚楽第破壊後に作った城風屋敷。京都御所南東にありました。秀吉が作ったときは堀や塀のある城の様なつくりでした。北政所が移り住んでからは塀や堀を撤去し規模を縮小しました(高台院屋敷)。また、秀吉から河内国に大名並みの1万5,672石の領地を与えられていました。

慶長4年9月15日(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると。9月17日には兄の木下定家の護衛で勧修寺晴子(後陽成天皇の母)の屋敷に避難しました。

俗説では高台院は淀殿と対立したため福島正則らを東軍に参加させたといわれますが、そうでもなさそうです。
実際には、石田三成とも親しく、三成の娘を養女にしました。大谷吉継の母は北政所に仕えていました。他にも西軍に高台院の関係者がいます。

高台院としてはどちらかに肩入れしていたというわけではなく、平和を望んでいただけだといわれます。

戦終了後は、再び高台院屋敷で暮らしました。家康からは河内にある領地を安堵されました。

秀吉を祀った豊国神社に度々参拝するなど、秀吉の供養を行う日々でした。

山内一豊の正室・見性院は一豊の死後、養子である湘南宗化が住職を勤める妙心寺の近くに移り住みました。高台院屋敷にも近く、高台院と見性院は晩年も親しくしたということです。

 慶長8年(1603年)、養母・雲亮院(ふく)が死去。秀頼と千姫の結婚後。出家。高台院と名乗ります。

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高台院(こうだいいん)時代

 

慶長10年(1605年)、母と秀吉の供養のため、高台寺(京都市東山区)を建てました。寺の建設には徳川家康が協力しています。

慶長19年(1614年)大坂の陣が起ります。高台院は大坂城に行って秀頼を説得するつもりでした。幕府は甥の木下利房を派遣して、大坂城に行かせないように監視させます。

慶長20年5月8日(1615)年。大坂城は落城すると共に豊臣家を継いだ秀頼も亡くなりました。こうして秀吉と共に築き上げた豊臣家は途絶えました。

その後、木下利房は高台院を足止めした功績で備中国足守藩主となりました。

羽柴家(豊臣家)が途絶えたことを残念に思った高台院は、木下利房の次男を養子として迎えて羽柴家の跡取りとしました。

高台院は徳川秀忠とは仲がよく、上京したときには高台院屋敷を訪れました。家康の死後、秀忠は高台院の領地を1万6,346石に若干増えてます。これは秀忠が12歳で豊臣家に人質に出されていたころ、北政所と孝蔵主が実の子のように可愛がったため仲がよくなったといわれます。

高台院は公家としても活動し、朝廷との付き合いは続きました。

 

寛永元年9月6日(1624年)、高台院屋敷で死亡。享年については76、77、83等の説があります。
お墓は、高台寺(京都市東山区)にあります。

領地約1万7000石のうち、近江国にあった3千石を羽柴利次が相続しています。
利次は高台院の死後、木下姓に戻し旗本となりました。

 

 

 

 

 

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