光格天皇 江戸時代に朝廷の権威を高め幕末に影響を与える

天皇

光格天皇は江戸時代の天皇です。一般にはあまり知られていませんが、幕末の歴史に大きな影響を与えた天皇なのです。

もしかすると、光格天皇がいなかったら尊王攘夷運動は盛り上がらなかったのではないかと思うくらい重要な天皇です。

光格天皇とはどんな人だったのでしょうか。

PR

 光格天皇(こうかくてんのう)とは

諱:師仁(もろひと)、兼仁(ともひと)
幼名:祐宮(さちのみや)
生年:明和8年8月15日(1771年9月23日)
没年: 天保11年11月18日(1840年12月11日)
在位:1779~1817年。
父:閑院宮典仁親王(追尊:慶光天皇)
母:大江磐代
子:
仁孝天皇他多数。

分家から天皇に

閑院宮典仁親王の第6皇子として産まれました。
閑院宮家(かんいんのみや)は113代東山天皇の第6皇子・直仁親王から始まる宮家です。

宮家は天皇の後継ぎをだすために残された天皇家の分家。直系の子孫が絶えたときに皇位継承者を出すための家です。

将軍家における御三家、御三卿のようなものです。

師仁(もろひと)親王は第6皇子でした。閑院宮家も継ぐことは出来ず、出家を待つばかりでした。出家先も聖護院と決まっていました。

諱(いみな:本当の名前)は師仁(もろひと)ですが、発音が「しにん」につながるというので、のちに兼仁(ともひと)に改めました。

安永8年10月29日。後桃園天皇が崩御。

後桃園天皇には皇子がいません。そこで天皇の死は隠されあと継ぎを決めることになりました。分家の閑院宮家から天皇をむかえることになったのです。

他にも候補になる皇子はいましたが、後桃園天皇の娘・欣子内親王と結婚する前提なので一番歳の近い師仁親王がえらばれたといわれます。

安永8年11月8日(1779年12月15日)。後桃園天皇の養子になりました。

安永9年12月4日(1780年12月29日)。即位しました。

天皇になりました。わずか9歳でした。

傍流の悩み

閑院宮家は当時はもっとも新しい宮家でした。光格天皇は3代遡らないと天皇家にたどりつきません。嫡流ではなく傍流の血筋だったのです。

5代遡って皇位継承した継体天皇ほどではありませんが。分家という意識は光格天皇に大きな影響を与えたようです。

光格天皇は天皇家の血筋としては遠い存在になります。そのため公家や宮中、幕府の扱いは軽くなってしまいました。血筋が大きな価値を持つ時代ですから、光格天皇にとっては傍流というのは大きな負担になったのでしょう。

天皇(呼び方はいろいろあるでしょうが)といいながらも宮中の者にないがしろにされてしまう。光格天皇は子供ながらに不満をもっていたかもしれません。

そんな光格天皇を心配したのでしょうか。前の前の天皇で、後桃園天皇の叔母にあたる後桜町院は光格天皇に熱心に学問を勧めました。

光格天皇は熱心に学問にはげみました。

後桜町院は勉強熱心な光格天皇を褒め称え、他の公家も見習うように言いました。

一方、天皇の補佐としては関白がいます。しかし関白の九条尚美は晩年は病がちでした。晩年は関白としての政務が出来ない期間がありうました。そこで光格天皇は若いながらも職務をこなさざるを得ませんでした。1、2の近臣の助けを借りながらですが、任せきりにするのと自分でするのでは大きな違いです。

天明2から8年にかけて大飢饉が起こりました。

天明7年(1787年)。いつしか、京の人々が御所の周囲を回るようになりました。

人々は飢饉で生活が苦しくなったため、救いを求めるために御所にお参りに来たようです。

最初は1、2人だったのが、40、50人になり。年齢性別関係なく1万人もの人々が御所の塀のまわりをぐるぐる回ってます。多いときには7万人が回っていたといいます。南門までくるとお賽銭を投げ入れて紫宸殿に向かって拝んでいました。

人々は神仏に祈願するのと同じ感覚で御所を回っていたようです。

最初は京の人々が行っていました。そのうち噂は広まって河内(大阪)や近江(滋賀)の人々も来るようになりました。

京の街では人々が列を作り、伊勢のおかげ参りのようだったといわれています。

御所では塀の溝を掃除して池の水を流しました。夏場だったので暑さをしのぐために水をながしたのでしょうか。

仙洞御所の後桜町院は人々にりんご(当時のりんごは現代よりも小さめ)を配らせました。1日で3万個がなくなったという記録もあります。宮家や公家の屋敷前でも人々にお茶や握り飯が配られました。

単純に神頼みの延長で御所に参拝しただけではなさそうです。

人々は飢饉で米の値段が上がって困っていました。そこで京都町奉行所に米の値段の引き下げを何度も訴えました。ところがなんの対策もなかったので御所に訴えたのです。

幕府は何もしてくれないが、天皇や朝廷ならなんとかしてくれるのではないかという期待感があったのではないかともいわれます。

中には人々が集まっているから遊び半分できた人もいるようです。でも多くの人々は困っていたため来たのでした。

この騒動では京都町奉行所が取締をしようかと朝廷にといわせました。朝廷は「その必要はない」と返事しています。

日本各地で起きている飢饉に対して幕府は有効な対策ができていませんでした。京では人々が御所の回りに列を作り、関東や大坂など都市部では打ちこわしが起き、日本各地で多くの人が飢えていました。

光格天皇と後桜町院は人々を救うため、朝廷でもできることを実施するとともに幕府が米をだすことはできないのか、それを朝廷から幕府に言うことはできないのかと関白らに対して支持しました。

関白鷹司輔平は武家伝奏(幕府との連絡係)に命じて幕府に光格天皇の意見を伝えるように文書にして指示しました。

しかし朝廷が幕府に対して意見するのは「禁中並公家諸法度」に違反します。幕府から処分されても文句はいえません。武家伝奏はおそるおそる、京都所司代に文書を渡しました。

京都所司代はそのまま受け取ると「幕府でも検討しているので追加でできることがあればする」と返事しました。

京都所司代では朝廷から文書が届く前に幕府に米500石を放出するように連絡していました。朝廷の意見を受けて追加で1000石(15トン)出すことになりました。

米の放出は既に決まっていたこととはいえ、朝廷からの意見は幕府内でも「もっともなことだ」と問題にはなりませんでした。ただし御所の回りに大勢の人々が群がっているのは所司代の失態として幕府の役人が責任を取らされています。

米は配られたものの、飢饉や御所への参拝は収まりません。その後も、武家伝奏と京都所司代が交渉を行いました。しだいに朝廷が幕府に意見を言うようになってきました。

人々の間には「朝廷が幕府に人々が困らないように対策をおこなうよう勅書を出した」という噂が広まりました。

実際には勅書は出さず、おそるおそる文書を渡しただけです。

でも、結果的に天皇と朝廷の権威は高まりました。

また人々を救済するためなら朝廷は幕府に対して意見を言っていい。

という前例を作ることになりました。

お役所仕事は前例が重要です。前例ができれば、あとは繰り返すことができます。

朝廷行事の再興

光格天皇はそれまで中断されていた行事の再興に熱意をもちました。

朝廷では古来より多くの行事が行われていました。天皇の仕事は神に祈ることだったからです。

しかし応仁の乱や戦国時代の混乱で多くの行事が中断、簡略化されました。中には織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代に復活したものもあります。でも復活しても略式で行われたりしていました。

光格天皇の時代には行事が復活したり、平安時代の形式に戻したりしています。

新嘗祭もそのひとつ。それまでは宮中の外で貴族が変わりにしていました。それを御所の中で天皇が行う本来の形にもどしたのです。儀式を行うための神嘉殿も作りました。神嘉殿とは大きな神棚あるいは御所専用の神社のようなものです。しかし幕府に無断で作ったので老中・松平定信は朝廷を警戒するようになります。

石清水八幡宮や賀茂社への行幸も復活させました。

公家たちは幕府に対して根強い反発心がありました。かつての朝廷の権威を高めようとする光格天皇の動きは朝廷内部や公家からも歓迎されました。

朝廷権威の復活は光格天皇だけが望んでいたわけではありません。江戸中期の霊元天皇や東山天皇、桜町天皇も祭司を復活させようとしていました。しかし多くが幕府に反対されなかなか出来ませんでした。

光格天皇は東山天皇の子孫。しかも分家出身で軽んじられていた光格天皇は、権威へのあこがれが特に強かったといわれます。

朝廷内には権威の復活を望む意見が根強くあり、光格天皇の思惑と一致したのです。

復古調の御所再建

天明8年(1788年)。京都で火災が発生。御所も焼失しました。御所が再建されるまで3年間、聖護院で暮らしました。

御所の再建は幕府が行います。幕府は御所造営総奉行、朝廷は造営掛をおいて御所の再建にとりかかりました。

再建については朝廷は紫宸殿と清涼殿は平安時代に近いかたちでの再現を望んでいました。しかし幕府はできるだけ簡単に済ませたいと思っていました。財政的に厳しかったからです。8代徳川吉宗の時代に財政再建に成功した徳川幕府も11代徳川家斉の時代には財政不足に陥っていました。天災が続いた不運もありますが、巨額の出費を続けていたツケがきていたのです。

関白鷹司範平と老中松平定信は交渉しますた。松平定信は巨額の造営は幕府だけではできないから大名にも負担させることになる。大名に負担させると民を苦しめることになると反論しましたが、鷹司範平は引き下がりません。

平安時代の御所をまるごと再現するといっているわけではありません。祭礼を行う時に重要な紫宸殿と清涼殿が狭いので古い形に戻したいというのです。朝廷は再建計画を作って幕府につきつけ御所の再建を認めさせました。

寛政2年(1790年)。朝廷の要求通りの御所が完成しました。

現在の京都御所は安政元年(1854年)に消失して安政2年(1855年)に再建されたもの。寛政年間に作られたものとほぼ同じだといわれます。

光格天皇以前の御所はさらに質素だったようです。

京都御所は京都御苑の中にある建礼門より内側の部分。普段立ち入りが出来る公園部分(京都御苑)は公家たちが住んでいた場所です。

尊号一件

光格天皇の父は閑院宮典仁親王。宮家の人なので天皇ではありません。

閑院宮典仁親王は大臣よりも下側の席に座ることになってました。

禁中並公家諸法度では公家や幕府の人が座る順番を厳しく決めています。現在でも座る場所には上下関係があります。この時代は座る順番は大変な問題でした。

光格天皇は自分の父が臣下よりも下になってしまうのが許せません。そこで光格天皇は父に「太上天皇」という尊号をおくろうとしました。そうすれば父が臣下より下に座らなくてすむからです。

尊号を送りたいという光格天皇の意志は幕府に伝えられました。

ところが幕府は拒否しました。光格天皇は幕府よりの立場をとる関白鷹司範平と武家伝奏を更迭。朝廷内部では強硬派の前大納言中山愛親を中心に光格天皇を支持する意見が圧倒的多数でした。新しく関白になった正親町公明と武家伝奏に何度か交渉させましたがそれも幕府が拒否しました。

そこで光格天皇は幕府の許可なく独断で父に「太上天皇」の尊号を与えました。

老中・松平定信は御所の新築などで朝廷に苦渋を飲まされていました。そこで松平定信は強硬手段に出ます。関白正親町公明と前大納言中山愛親を逮捕して処分しました。松平定信は朝廷の高官であっても幕府の独断で処分できるとしたのです。結局「太上天皇」の尊号を送るのは中止になりました。

光格天皇は幕府に敗北しました。しかし世間の同情を集めました。「中山愛親が松平定信に勝った」という内容の物語が作られ民間に広まりました。

朝廷びいきの雰囲気は尊王思想に影響を与えます。

蝦夷魯西亜一件(エゾロシアいっけん)

文化元年(1804)。ロシア使節レザノヌが来日して通商を求めました。幕府はレザノヌを半ば軟禁状態にした上で拒否しました。それに対してロシアが報復を行ってきました。

文化3年(1806)。ロシアの軍艦が樺太、択捉、利尻で略奪、放火、日本船を攻撃する事件が起こりました。幕府は東北の諸般に蝦夷地出兵を命じました。

江戸や京では様々な噂が流れました。

そこで幕府は朝廷に報告をしてもいいかどうか問い合わせたところ、朝廷は報告するようにと返事しました。

幕府はロシアとの交渉経緯を朝廷に報告しました。

しかしこの事件は朝廷が幕府に報告を求め、幕府の外交に朝廷が意見してもよいという前例になりました。のちに通商修好条約を結ぶときには幕府にとって大きな足かせとなるのでした。

学問好きな天皇

光格天皇は学問好きな天皇でした。朝廷の教育機関の再興に力を注ぎました。

平安時代には大学寮という役人になるための学校があったのですが、消滅していました。そこで教育の場所を作ろうとしました。存命中には完成しませせんでしたが、次の仁孝天皇の時代に学習院が完成します。

院政を復活

文化14年(1817)。光格天皇は恵仁親王(仁孝天皇)に譲位。上皇になりました。御所を出て仙洞御所に移り住みました。しかし引退したわけではありません。院政をしいたのです。

光格上皇は宮中で勉強会を開きました。実際に勉強会の中心になったのは息子の仁孝天皇。仁孝天皇は中国の古典以外に六国史(日本書紀などの日本の歴史書)も勉強しました。

意外なようですが、江戸時代には宮中でも日本書紀などの日本の歴史を勉強する機会がなかったのです。天皇家の歴史を学ぶことは討幕につながるかもしれないとしてタブー視されていました。

しかし朝廷の権威を大切にする光格天皇は天皇家や日本の歴史も学ぶ必要があると考えました。光格天皇が意識した日本の君主としての天皇像は孫の孝明天皇にも影響を与えます。

朝覲行幸を復活させました。朝覲行幸とは天皇が父や母の住む御所に行って挨拶することです。年頭に朝覲行幸をすることになってましたが、実行する前に光格天皇が崩御したために実施されませんでした。挨拶といってもそれ自体がセレモニーであり儀式でした。

天保10年11月19日(1840)。天皇在位39年。上皇在位24年という長い間、君臨した光格天皇は崩御しました。70歳でした。

PR

天皇号の復活

翌年。亡くなった天皇に対して。「光格天皇」の諡号が送られました。

「光格天皇」の名がおくられたことに京や江戸の人々は驚きました。なぜなら、平安時代の村上天皇からあとは、◯◯天皇とは呼ばれていなかったのです。ほとんど◯◯院とだけ呼ばれていました。

光格天皇の先代は後桃園天皇。でも当時は「後桃園院」と呼ばれていました。意外なことに「◯◯天皇」という呼び方は900年ぶりに復活したといってもいいくらいです。現代はすべて「◯◯天皇」という呼び方に統一されています。

天皇号の復活は公家たちが望んでいたことでした。朝廷の権威を上げた天皇に対して院号以外のものを送るべきという意見がでたのです。

院という呼び名は一般人の戒名と同じです。お金さえあれば庶民でも◯◯院と呼ばれるのです。将軍よりも上の格にしたいという公家たちの想いが天皇号の復活につながったのでした。

朝廷は幕府と交渉し、天皇号を送ることを認めさせました。

天皇号をおくるというならわしは現代まで続いています。

幕末や現代にまで影響を与えているのが光格天皇なのです。

系図

()内は歴代数

東山天皇(113)
在位:1687-1709
 |
閑院宮
直仁親王
 |
典仁親王
 |
光格天皇(119)
在位:1779-1817
 |
仁孝天皇(120) 
 |
孝明天皇(121) 
 |
明治天皇(122)

コメント

タイトルとURLをコピーしました