孝明天皇・祈るだけの存在から幕府に物申す天皇へ

孝明天皇は幕末の混乱期にあって大きな影響力を持った天皇です。第121代の天皇になります。

江戸時代の天皇は力も権威もない存在でした。幕府の決めた規則(禁中並公家諸法度)に縛られ、収入も幕府に管理されています。官位を授けるだけに生かされているといってもいい存在でした。そうすることで朝廷も生き延びていました。日本史上天皇の力と権威の最も弱い時代が江戸時代でした。

しかし幕末になると朝廷は幕府と同等かそれ以上の権威をもつようになります。そのような時代に行きたのが孝明天皇です。明治維新の流れの中で大きな役割を果たしました。

孝明天皇はとはどんな人だったのでしょうか。

なお。孝明天皇は没後におくられた諡号(贈り名)です。この記事では生前のできごとも孝明天皇と書きます。

 孝明天皇(こうめいてんのう)とは

諡号:孝明天皇(こうめいてんのう)
諱 :統仁(おさひと)
称号:煕宮(ひろのみや)
生年:天保2年6月14日(1831年7月22日)
没年: 慶応2年12月25日(1867年1月30日)
在位:1846年3月10日から1867年1月30日
父:仁孝天皇 
母:藤原雅子
正妻
女御:英照皇太后
子:明治天皇 他

天保2年6月14日(1831年)。第120代仁孝天皇の第4皇子として生まれました。

天保11年3月(1840年)に皇太子になりました。

弘化3年1月(1846年)。仁孝天皇が崩御。

弘化3年2月(1846年)。孝明天皇が即位しました。16歳という若い天皇でした。即位式はまだですが天皇を引き継ぎました。

幕府に海防勅書を出す

弘化3年8月(1846年)。朝廷は幕府に対して「海防勅書」を出しました。

孝明天皇が即位した頃。日本には毎年、外国の船が来て開国や通商を要求していました。

幕府は朝廷に報告の義務はありません。でも公家と大名家には親戚関係になっているところもあります。水戸徳川家と関白鷹司家は親戚でしたから詳細な情報を入手していたようです。

そこで危機感を覚えた朝廷は幕府に「海防をいっそう強化し、神州の瑕瑾(恥)にならないように処置し天皇を安心させるように」という内容の勅書を出したのです。

幕末史では朝廷が勅書を出す場面はよくあります。でも本来、朝廷が幕府に指図してはいけません。政治はすべて幕府に委任しています。だから口出しはしてはいけないのです。

江戸前期・中期までのように幕府が圧倒的に強い時代なら勅書を出せば朝廷関係者は処分されたでしょう。

しかし孝明天皇の祖父・光格天皇が幕府に指示を出すという先例を作りました。その流れがあるので孝明天皇が幕府に勅命を出すことが出来たのです。

この時期は孝明天皇は即位したばかり。16歳という若さです。太閤の鷹司政通が主導しておこなったものでしょう。

孝明天皇の暮らし

勉強家だった孝明天皇

弘化4年(1847年)。学習書の開校が行われました。祖父・光格天皇の発案でつくられた学校がようやく完成しました。現在の学習院大学のもとになります。

父の仁孝天皇のころから漢書(古代中国の古典)、儒学だけでなく、六国史の勉強が行われました。六国史とは日本書紀からはじまる6つの日本の正史です。

江戸中期には天皇が日本書紀を勉強していたら批判されていました。儒教などの漢学が重要とされたのです。

しかし江戸後期になると宮中で天皇主催の勉強会で日本書紀を含む六国記が勉強され、日本の成り立ちや律令制について議論されていました。

天照大神から続く天皇家の子孫という認識は歴代の天皇も持っていたとは思います。光格・仁孝・孝明天皇はとりわけその意識が強かったようです。

天皇家は貧乏だった?

江戸時代の天皇は貧乏だと言われます。たしかに位のわりには質素でした。しかし孝明天皇の時代には幕府からの支給が増え、大名からのおくりものもありました。豪華とはいえないまでも、不自由はしない程度には暮らせたといいます。

孝明天皇は大のお酒好きで、晩酌をするのが楽しみでした。将軍の方が質素な生活だったとも言われます。夜の6~7時ごろに夕食が始まり、夜10時ごろまで飲んでいたといいます。毎日飲んでいたわけではありませんが「毎日のようだ」と書かれています。

天皇の仕事は祈ること

孝明天皇の即位した時代は年に何度も外国の船が来る時代になりました。

しかし天皇ができることは祈るだけでした。

政治・外交・軍事はすべて幕府の役目。天皇の役目は国の平和のために祈ることだけなのです。

弘化4年3月(1847年)。賀茂社と石清水八幡宮で「乱逆取り鎮めの祭り」と称して臨時祭を実施。異国の船を「乱逆」と感じた朝廷は隔年で行っていた臨時祭を予定を早めて行いました。

天皇の役目とは言え、予定を変更しての臨時祭をおこなうためには幕府の許可がいります。費用は幕府が出すからです。

朝廷の申し入れに対して幕府の返答は「問題ない」というもの。朝廷は臨時祭を行いました。

年に何度もやってくる外国船に対して幕府は海防の強化を大名に命じ、武士以外の者にも協力するように要請しました。

それを受けて朝廷では祈りの回数を増やしました。

嘉永3年(1850年)。朝廷は七社七寺に対して「万民安楽、宝祚長久祈り」を命じました。

七社は伊勢神宮、石清水八幡宮、松尾代謝、平野神社、伏見稲荷、春日大社。
七寺は仁和寺、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺(三井寺)、東寺、広隆寺です。

黒船来航

嘉永6年(1853年)。アメリカ東インド艦隊司令・ペリーがやってきました。外国船が来るのはペリーが初めてではありません。

ペリー艦隊がそれまでの外国船と違うのは圧倒的な大きさの艦隊を見せつけ武力で開国を要求したことです。それまでの日本の対応から交渉では開国できないと考えたアメリカの作戦でしょう。

朝廷には幕府からの報告はありませんでした。しかし水戸徳川家と太閤鷹司のルートで情報は入ってきました。

国の危機に対して朝廷ができるの祈ることだけです。
七社七寺に対して祈りを命じました。

幕府がアメリカにどう返事するのか気になった朝廷は幕府要人と接触。三条実万は老中・阿部正弘と会談しました。

老中・阿部正弘は幕府の方針を伝えた後、「天皇に考えがあるなら申してください、そうすれば意向にそって対処します」という内容の返事をしました。天皇が命令すれば幕府がそのとおりに実行すると解釈されても仕方のない内容でした。

朝廷内で対策が話し合われました。

朝廷で一番発言力のある太閤鷹司政通は開国派、三条実万は鎖国派でした。

幕府は日米和親条約を結び、朝廷に事後報告がありました。朝廷では鷹司政通の主導して承認しました。朝廷内では不満の意見がでます。

このときも天皇ができることは祈ることです。伊勢神宮、日光東照宮、賀茂社、岩清水八幡宮などで祈祷がおこなわれました。

朝廷内では外国が攻めてきたときのために都の守りをどうするかが問題になりました。京都の治安を強化するため幕府の譜代大名に京都を警護させる案や、天皇の避難場所の検討が始まりました。

ロシア艦隊が大阪湾に出現

嘉永7年(1854年)。ロシア使節プチャーチンの乗るロシア艦隊が大阪湾の天保山沖に出現。外国がその気になれば大阪湾奥深くに上陸できることになり、大騒動になりました。

まずは彦根藩、小浜藩によって京都の警備が強化され、後に他藩も加わります。幕府が京都の警備を強化するきっかけになりました。

律令時代の命令が復活・お寺の鐘を大砲に

安政元年(1855年)。朝廷は全国の寺に梵鐘を出すように「太政官付」がでました。大砲を作るための材料にするためです。太政官付とは律令時代に朝廷が出した命令です。この時代には効力はありません。受け取った江戸幕府は朝廷に訂正を要求。結局、朝廷が折れて命令は実行されませんでした。

命令を実行する力のない朝廷としては意味のない行動ですが、朝廷が全国に命令を出すという江戸時代にはありえない出来事でした。

日米修好通商条約に反対

安政4年(1858年)。

幕府は日米修好通商条約の調印のため朝廷に許可を求めてきました。和親条約のときは事後承認でした。しかし尾張藩、仙台藩、鳥取藩、阿波藩など御三家や有力譜代大名の中には反対もあったため、事前に勅許をもらい反対意見を抑え込もうとしたのです。

老中・堀田正睦は勅許はもらえると楽観していたようです。

朝廷側もどうしていいかわかない状態でした。和親条約に反対していた三条実万も「反対だけしていたのでは大変なことになる」と困惑していました。

その中で孝明天皇は強硬に反対していました。「私の代でこのようになってしまうのは、後々までの恥、伊勢をはじめとする先代の方々に申し訳ない」という内容の書簡が残ってます。

宮中の人々は基本的に偉人嫌いでした。とくに天皇は御所の外に出ることがなく、外国人に接する事がありません。江戸時代になってもほぼ平安時代の生活を保っています。人間は知らないものには恐怖を覚えます。孝明天皇にとっての未知の恐怖が異人だったのです。

孝明天皇は老中が説得に来ても拒絶する。外国が納得しないのなら「打ち払い」すると決意しました。

異人嫌いにくわえ。神につながる皇統の一員、力はないとはいえ天皇は日本の君主である。という認識が頑なな反対につながったのかもしれません。

おそらく江戸中期までの天皇ならここまで反対はしなかったでしょう。幕府が言うなら仕方ないで終わっていたと思います。

世界情勢に疎いからといえばそれまでですが、孝明天皇の頑なな意識が後に尊王攘夷派のよりどころになります。

とはいっても、孝明天皇の独断で決められるほどの力はありません。

朝廷内部の公家たちは幕府に「戦争すれば負ける。だから条約に調印するしかない」と説得され。孝明天皇は孤立しました。

朝廷が出した答えは「幕府の方で判断してくれ」。

この内容で幕府への勅答が作成されようとしていました。

堂上公家・非蔵人の抗議行動

ところが返答の内容を知った堂上公家・朝廷の下級役人、若い公家たちが調印に反対して抗議行動を起こしました。

80人以上で幕府に一任を撤回をもとめる要求書を連盟で提出。関白の家におしかけました。非蔵人・下級の公家だけでなく御所で働く使用人たちも連盟で撤回の要求書を提出しました。

これらの抗議行動は岩倉具視が重要な役目を果たしたといわれます。

堂上公家・非蔵人の抗議行動を知った孝明天皇は勅答の変更を指示。

関白九条尚忠以下、朝廷の上層部は公家大衆に押し切られる形で勅許の内容を修正しました。

「幕府は大名の意見を聞いて検討し、天皇は幕府からその内容を聞いて判断する」という内容に改められました。

幕府としては天皇の許可が欲しかったのですが、その天皇が幕府の意見を聞いてから決めるというのです。

老中・堀田正睦は「戦争になってもいいのか、持ちこたえられるはずはないではないか」と関白・九条尚忠に手紙を送ります。でも孝明天皇は「是非なき儀」と戦争になっても仕方ないという考えでした。

老中・堀田正睦は勅許獲得に失敗。幕府にとっては誤算でした。

幕府への返答をすませた孝明天皇は伊勢神宮などに異敵調印の祈祷を指示。抗議を起こした堂上公家・蔵人に褒美を与えました。朝廷に逆らった者たちを罰するどころか褒め称えたのです。

これにより孝明天皇は下級の公家たちから絶大な指示をうけ天皇の権威は上がりました。これ以降、尊攘上位派の公家や武士が増えるとともに天皇の権威がさらに上がります。

もし孝明天皇があっさりと開国を受け入れる天皇なら尊王攘夷運動は盛り上がらなかった。尊王と攘夷運動は別物になってしまいます。明治維新も違っていたものになっていたかもしれません。

しかし孝明天皇が自ら起こした攘夷の流れはやがて孝明天皇の意志とは無関係に暴走するようになります。

つづく。
次回:孝明天皇・高まる権威と暴走する尊王攘夷派