昊天と傑山・井伊家を支えた禅僧

大河ドラマ「おんな城主直虎」に登場する昊天と傑山。僧なのに武術が強かったり、次郎法師を厳しく指導したりする役柄です。でも二人の僧は実在の人なんです。

昊天と傑山は井伊家とゆかりのある龍潭寺の僧でした。二人とも南渓和尚(瑞聞)の弟子です。お寺にいるだけでなく、井伊家に仕えて直虎たちを支えます。

昊天と傑山はどんなひとだったのでしょうか。

昊天宗建(こうてんそうけん)

生年:不明
没年:1622年

龍潭寺で修行する南渓和尚の弟子。「井伊家伝記」に名前のある人物です。武芸に優れた人物でとくに長刀(なぎなた)の名人でした。長刀昊天といわれるほどでした。

もともと井伊家菩提寺の僧ですから井伊家とは縁があったのでしょう。龍潭寺で出家した次郎法師とも縁があったと思われます。

やがて傑山とともに井伊直政に仕えます。

天正12年(1584)小牧長久手の戦いでは井伊軍の一人として参戦しました。南渓和尚は直政が戦で先陣を務めると聞き、昊天と傑山に龍潭時に伝わる「日月松の扇」を持たせて同行させたといいます。先陣という名誉だけれども危険な任務が全うできるよう仏の加護を願ったのでしょうか。昊天と傑山はただの僧ではなく武術の達人なので戦でも働くことができたのでしょう。

直政が関ヶ原の戦いの武功で近江国佐和山城(滋賀県彦根市)に移ると昊天も近江に移り住みました。

1602年。井伊直政の死後、佐和山のふともに龍潭寺を創建(滋賀県彦根市古沢町)します。近江の龍潭寺は彦根に移った井伊家の菩提寺となります。遠江の龍潭寺の住職を務めつつ近江の龍潭寺も創建するという多忙な日々を送っていたようです。

ドラマでは体育会系に対して頭脳派の傑山。南渓和尚の右腕的存在です。次郎法師(直虎)の兄弟子にあたり、次郎法師の教育係を務めます。

傑山宗俊(けつざんそうしゅん)

生年:不明
没年:1592年

傑山も龍潭寺で修行する南渓和尚の弟子のひとり。「井伊家伝記」によると武芸に優れた人物で強弓の名人でした。要するに弓の扱いがうまいということです。

昊天とともに井伊家を陰で支えました。

井伊直政にも仕え、小牧長久手の戦いにも出陣しています。

天正18年(1590)。家康が関東に移動になった時には、龍潭寺の領地を安堵してもらうために京へ行き豊臣秀吉から安堵の朱印状をもらいました。武術だけでなく交渉にも優れたそうだったのです。

南渓和尚の後を継いで、遠江の龍潭寺の住職になりました。

ドラマでは武芸に優れた禅僧。直虎が両すとなった後も仕え、ボディーガードも務め直虎を支えます。

戦国時代の僧

平安時代以降、僧が武装することは珍しくありませんでした。戦乱の続く世の中ですから寺を守るために僧も自力で寺を守る必要があったのです。比叡山の僧兵は有名ですが他の大きな寺にも僧兵はいました。僧兵のイメージは武蔵坊弁慶の恰好そのままです。延暦寺や東大寺などの大きな寺では数百から数千の兵がいたといいます。

でも昊天と傑山は、そのような僧兵とは違います。禅寺には大規模な武装集団はいませんでした。確かに僧が武術を身につけることはありました。武器も用意していたかもしれません。最低限自衛できるだけの武力しか持っていなかったようです。

それに昔の僧は仏教だけ身に着けていたわけではありません。学者の立場も兼ねていました。当時としてはトップクラスの知識人でったのです。学問や土木などの技術にたけた人もいました。兵法書も理解し、武士の子供の教育係を務めた僧もいます。

南渓もそのような僧の一人。井伊家の参謀役です。南渓和尚は弟子たちも学問を学ばせました。武術に秀でた僧もいるし、学問に秀でた僧もいる。外交官のような僧もいました。

井伊家と対立する今川家には太原雪斎という参謀役の僧がいて義元を支えていました。

戦国時代の僧は現在よりももっと幅広く活躍していたのです。

主な参考資料
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版