松平元康・若き日の徳川家康はどんな人だった?

徳川家康は江戸幕府を開き、戦国時代を終わらせた武将として日本史でも特に有名な人物です。

でも、今川家から独立して江戸幕府を開いて亡くなるまでは数々のドラマや小説で紹介されて有名になってます。でも、若き日の徳川家康が語られることはあまりありません。

若いころの徳川家康はどんな人だったのでしょうか。

この記事では、徳川家康と名乗る前の竹千代~松平元信時代の家康について紹介します。

 松平元康とは

名 前:松平元信、元康、家康、徳川家康
通称・官名:次郎三郎
幼 名:竹千代
生 年:天文11年12月26日(1543)
没 年:元和2年4月17日(1616)
父:松平広忠
母:於大の方(水野忠政の娘)
正室:築山殿(関口親永の娘)、朝日姫(継室・豊臣秀吉の妹)
側室:阿茶局など
子: 松平信康、亀姫、結城秀康、督姫、徳川秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房など

徳川家康は三河国の大名・松平家の出身。自身も何度か名前を変えています。幼いころは竹千代、今川家の人質となってからは元信、元康と名乗りました。家康と名乗るのは今川家から独立した後です。

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竹千代誕生までの松平家

父・松平広忠は三河国の大名。松平家はもともと三河国松平郷(愛知県豊田市)の豪族でした。松平家の祖先は源氏の一族で新田義重だとされています。義重の息子が得川義季と名乗りました。義季の息子は世良田頼氏と名乗りその子孫は松平家に続きます。しかし、当時の資料で確認できるのは松平家になって3代目の信光まで。それよりも古い記録は現在は見つかっていません。そのため、この系図は徳川家康が征夷大将軍になるために、源氏の一族だということを正当化するために作られたものだとする説がありました。

しかし、家康の祖父・松平清康の時代から新田氏の一族であると主張していたことがわかりました。少なくとも家康が家系図を作ったのではないようです。

家康の祖父・松平清康が岡崎を本拠地にして三河国を統一。今川、織田に対抗する一大勢力となりました。ところが、織田との戦の最中に家臣が反乱を起こして死亡してしまいます。

清康の息子は広忠でしたが、まだ10歳だったので一族の信定が実権を握ります。広忠は命を狙われ逃亡生活を送ります。

天文6年(1537)。広忠は今川義元の助けを借りて岡崎に戻ります。信定は降伏。広忠松平家の当主となりました。

しかし清康の死後の混乱で、東三河は今川家が支配してしまいました。松平家の当主となった広忠は今川家に従うことで東からの攻撃にさらされなくなりましたが、西から攻めてくる尾張の織田家との戦いに明け暮れます。

竹千代誕生

天文10年(1541)。松平広忠が織田家と争っていたころ。広忠に嫡男竹千代が誕生します。竹千代の母は於大の方。尾張国の大名・水野忠政の娘です。忠政は周辺の織田家や松平家に娘を嫁がせて関係を維持することで領地を守っていました。しかし織田よりは今川に近い立場でした。ところが今川家と織田家が三河を舞台に争うようになると関係が崩れてしまいます。

天文12年(1543)。忠政の死後、水野家を継いだ信元は織田に味方しました。これに激怒したのが松平広忠です。広忠は今川家に従い、織田家と対立していました。広忠は於大の方を離縁し水野家に返します。竹千代は3歳で母親と離れ離れになりました。

天文16年(1547)。織田信秀が三河に攻めてきました。松平広忠は今川義元に援軍を求めます。義元は人質を出す条件で援軍を送ってきました。このとき、嫡男・竹千代を今川家の人質に出すことになりました。今川家の本拠地・駿府に向かう途中、田原城に立ち寄ります。このとき、田原城の戸田康光が今川家を裏切って竹千代を織田信秀に届けてしまいました。戸田家は今川家と因縁があり義元を恨んでい多様です。

しかし父・広忠は今川家の服従を続けました。竹千代は尾張で織田家の人質生活を続けます。このころ竹千代は織田信長と出会ったといわれますがどの程度の関係だったかはわかりません。

天文18年(1549)。父・広忠が家臣に殺されます。松平家は主が不在となりました。今川家は織田信広を人質に取ります。竹千代と織田信広は人質交換され、竹千代は今川家の人質となり駿府で暮らすことになりました。岡崎城は今川家から派遣された城代が治めることになりました。

松平元康の誕生

天文24年(1555)。竹千代は13歳で元服し松平次郎三郎元信と名乗ります。今川義元から”元”の字を与えられました。

義元のはからいで今川家臣・関口親永の娘(瀬名)を正室に迎えます。

元信はのちに元康と名を改めます。祖父・清康から”康”の字を受け継ぎました。松平清康は三河国をほぼ統一した松平史上最大の領地を持った人物。元康には偉大な祖父に対するあこがれがあったのかもしれません。

今川義元にしても三河国支配を安定して治めるためには三河の有力者を味方にする必要があります。重臣の関口親永の娘・瀬名姫を正室に取らせたのも松平家が重要だと考えたからなのでしょう。

関口親永の正室は今川義元の妹だとされる人物。実際には井伊直平の娘だったといわれます。いったんは今川家に入り、義元の妹ということになって関口家に来た女性でした。井伊直平の一族からはのちに井伊直政が登場します。井伊直政が出世した理由の一つに瀬名姫が井伊家の血を引くからだという説もあります。しかし德川家康がどのくらい井伊家と血のつながりを意識していたかはわかりません。

ともかく、松平元康は形の上では今川家の親類になったわけです。

天文27年2月(1558)。今川義元は織田に寝返った鈴木重辰を攻めます。この戦が元康の初陣でした。この戦いで手柄をたて、松平家の領地だった山中300貫文を得ました。

このころの元康は10万石の領地を与えられていたといわれます。義元からは将来の今川家を支える人物となることが期待されていたのでしょう。

桶狭間の戦い

永禄3年5月(1560)。今川義元は尾張の織田信長を攻めるため出兵。元康は井伊直盛らとともに先方として出陣します。

大高城を守っていた鵜殿長照が兵糧が少ないと訴えたため、元康が補給に向かうことになりました。このとき井伊直盛も補給に向かうことを直訴したといいます。義元は直盛は今川の本陣近くにいるよう指示し、元康に補給に行かせました。

元康が大高城に到着したとき、城は織田軍に包囲されていました。しかし、元康は織田の包囲を突破して無事兵糧を運ぶことに成功します。

しかし織田信長軍の奇襲にあった今川本陣は壊滅。義元や護衛していた家臣の多くが亡くなりました。

義元討ち死にの知らせを元康が受け取ったのは大高城で休憩しているときでした。元康は大高城を退却。松平家の菩提寺・大樹寺に逃げ込みます。今川とともに自分の命運も尽きたと思ったのでしょうか。元康は自刃しようとします。しかし寺の住職・登誉天室の説得で思いとどまりました。

江戸幕府を開いた立派な人のイメージがある徳川家康ですが、絶望的な状況になると死にたがるという癖?があります。少なくとも桶狭間の戦いの後、本能寺の変の後、大坂夏の陣の時は、家康は死を考えたといわれます。悲観的な一面があるのかもしれません。

考えを改めた元康は松平家が本拠地にしていた岡崎城に入ります。今川家から派遣されていた兵が岡崎城にいるはずでしたが、今川の兵は逃げていませんでした。

今川家からの独立

義元の死後、一時は自殺しようとした元康ですが、その後は早い段階から独立を考えていたと考えられます。

一般には今川を裏切って織田についたと思われがちですが、すぐには今川とは戦っていません。織田に占領された城を取り返しているので今川のために働いているようにも見えました。しかし自分の勢力拡大をしていたのでしょう。

永禄4年2月(1561)。元康は室町幕府に接触、独立した大名として認めてもらおうとしました。

4月。今川家の牛久保城を攻撃しました。しかし攻撃は失敗します。このとき初めて元康が今川家を裏切ったことがばれたといわれます。駿府で今川の人質になっていた正室・瀬名姫と息子・竹千代(信康)が危険にさらされます。元康としては犠牲も仕方ないと公言して家臣を鼓舞していました。家臣の石川数正が今川と交渉し人質交換で妻子が戻りました。

竹千代は岡崎城で育てたものの、瀬名姫は岡崎城には入れませんでした。瀬名は岡崎城近くの寺で暮らします。家康の母・於大の方が反対したからだともいわれます。今川家から嫁いだ瀬名には松平家中にも抵抗があったものと思われます。

以後、東三河各地で松平元康と今川氏真の戦いが起ります。

元康は東三河や遠江の領主たちに調略を行って今川から松平に寝返らせます。その過程で井伊直親(直政の父)にも調略を行ったと思われます。

永禄5年(1562)。水野信元の仲介で織田信長と同盟を結びます。後に言う清州同盟です。信元は元康の母・於大の方の兄。今川を裏切って織田についたことで家康の母は離縁させられた原因を作ったのですが。結果的に織田との縁をつなぐことになりました。

足利義輝や北条氏康は松平元康と今川氏真を仲裁しようとしました。最終的には元康と氏真は対立することになります。

松平家康の誕生

永禄6年(1563)。元康は名を家康に改めます。今川義元からもらった”元”の字を返してしまうことは、今川家との決別を意味します。この時点では名字はまだ松平でした。

永禄7年正月(1564)。三河の国で一向一揆が起ります。領民や本願寺の勢力だけでなく、本田正信たち家臣の中には一向宗側についてしまうものが続出します。

永禄7年(1564年)1月。元康は馬頭原合戦で一揆軍を破ります。その後、一揆軍から寝返るものが多く出て元康は有利となり、一向一揆を鎮圧しました。

家康は一揆に参加しても戻ってきた家臣を許しました。その一方で本願寺の勢力には厳しい処分を下します。一揆のあと、本願寺派の寺を他の宗派に改宗させます。抵抗する場合は寺を破壊しました。この後、天正11年(1583)ごろまで、三河では一向宗が禁止になります。普段は従順な家臣が多く一気に参加したことから、この戦いで家康は宗教勢力の怖さを思い知ったといわれます。

今川家と争っている最中に領内で一揆が起こります。三河の一向一揆は徳川家康にとって伊賀越え、三方が原の敗戦とともに三大危機ともいわれます。

徳川家康の誕生

永禄9年(1566)。従五位下三河守の位をもらいます。このとき、徳川に名字を変えました。德川に変えた理由は諸説ありますが。

松平家は源氏の一族。新田氏の支流で世良田氏の子孫。と名乗っていました。朝廷は「源氏の世良田氏が三河守になった例はない」という理由で三河守の位を与えることは拒否していました。そこで家康は近衛前久に相談します。世良田氏の一族の得川氏が藤原氏を名乗っていたことがあることがわかりました。そこで家康は藤原氏の一族である得川を名乗ることになりました。このとき、縁起のいい”徳”の字を使って”德川”としたのが徳川家の始まりだとされています。

徳川家康は源氏を名乗っていたといわれますが、一時的には藤原氏を名乗っていたようです。この時期、源氏の一族である足利氏が権力を失っていました。朝廷に働きかけるには源氏より藤原の方が都合がよかったからだともいわれています。徳川は源氏という考え方は江戸時代に固まったようです。

以後、徳川家康は武田信玄とともに今川氏真と戦い三河国を統一。後に江戸幕府を開くことになります。