中野直由・井伊家の血筋を誇りに本家を支えるも討ち死に

丸に橘

中野家は井伊家の分家筋にあたります。分家になったのが比較的新しいせいか、中野直由は井伊家の血筋に誇りを持ち、一族の一員としての自覚が高かったようです。そのせいで今川よりの小野家とは対立します。井伊直盛亡きあと井伊家を支えていくのですが、直由にも悲劇が待っていました。

中野直由とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 中野直由(なかの なおよし)のおいたち

 

名 前:中野 直由(なかの なおよし)
通称・官名:越後守、信濃守
生 年:不明
没 年:(1564年)
父:中野直村 
子:中野直之

 

中野家は井伊家の分家筋にあたる家系です。井伊直平の父の兄弟から始まりました。井伊家から分かれた家には奥山、井平など沢山の分家があります。これらの家は地名を名字にしたので別の一族みたいですが、もともとは井伊家から分かれた家です。中野家は分家の中では本家に近い血筋です。「寛政重修諸家譜」によれば、井伊家第11代当主・井伊忠直の子・直房が中野の始まりになります。井伊谷中野郷(静岡県浜松市北区引佐町)を領地にしたことから中野姓を名乗るようになりました。直由は尚房の孫になります。

室町時代以降、井伊家はたくさんの分家がありました。中野家もその一つです。分家は家臣扱いですが、井伊家の血筋をひく家柄としての自負があったようです。家臣団の中でも重要な地位にありました。その一方で、ただの家臣とは違う独立的な気風もあり常に本家に従っていたわけではないようです。江戸幕府の御三家のような感じなのかもしれませんね。

中野家が分家になったのは直由の祖父の代。だから井伊家の分家筋の中でも分裂したのが比較的新しいほうなんですね。そのため井伊家としての意識も高かったようです。

分家筋の家たちの中には、井伊家が今川家の支配を受けるようになると今川家に反発することありました。中野直由もそのひとりです。中野家と小野家の対立は激しかったようです。

 

尚盛から井伊家を任される

永禄3年(1560)。「井伊家伝記」によれば、桶狭間の戦いで井伊直盛(直虎の父)が自害するとき、そのとき、直盛は自らが名乗っていた信濃守の官名を直由に与えて、直親の後見を頼みました。井伊家当主の直盛から後継者・直親を守り助けるようにたのまれたんですね。

直親は成人したといっても井伊谷に戻って5年しかたっていません。井伊谷の人々から信頼を得ているとも言い難く、直親を助ける人脈も育っていません。中野家は直平の父の兄弟から始まった分家です。井伊家の血をうけつぐ分家の中で最も井伊家の本家筋に近い家柄です。しかも当時の中野家当主・直由は働き盛りの年齢です。その直由に直親の後ろ盾となって助けてほしいとの思いがあったのでしょう。

直由は直親を助けて井伊谷を収めようとします。

永禄5年(1562)しかし小野但馬守によって直親が謀反を疑いをかけられ殺害された後は新野左馬之助とともに井伊谷を収めていきます。

永禄7年(1564)。今川氏真は遠江国の飯尾氏を攻めます。今川から井伊家にも出兵の命令が来ました。井伊家ではすでに直系で戦を率いる男がいなくなり、中野直由と新野左馬之助が井伊家の軍を率いて出陣しました。

直由と左馬之助は兵の数が少なかったので、今川に援軍を求めるうと2000の兵が派遣されました。そこで飯尾氏の守る引馬城を攻めます。最初は敵兵数百を討ち取ったといいます。しかし、城東の天馬橋で直由と左馬之助は討ち死にしてしまいました。

こうして井伊家や一族には家を率いる有力な男がいなくなってしまいました。その結果、井伊直虎が井伊家を率いることになっていくのです。

直由には息子の直之がいます。直之も井伊家を支える重臣となります。井伊直政の家老となる松下一定は直由の孫になります。

 

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL

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