南渓和尚(瑞聞)・井伊家を支えた名参謀

丸に橘

南渓和尚は井伊直虎の人生に深く関わる禅僧です。

井伊家菩提寺龍潭寺(りょうたんじ)の住職。直虎の大叔父にあたります。出家した次郎法師の師匠になります。次郎法師という名を授けたのも南渓和尚。一見するといいか加減なようですが、実は井伊家の軍師も努めます。直虎が井伊家当主になった時は直虎をサポートします。

 

南渓和尚(瑞聞)とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 南渓和尚のおいたち

 

名 前:南渓瑞聞(なんけいずいもん)
生 年:(1513年)
没 年:(1589年)
父:実田秀公居士(法名・実名は不明) 
母:善室賢修大姉(法名・実名は不明)

南渓瑞聞は出家後に名乗った名前。出家前の名前はわかっていません。

井伊直平の息子ですが、実子ではなく養子といわれています。出家して龍潭寺に入ります。龍潭寺は井伊家の菩提寺でした。

天文13年(1544)。井伊直親・直義兄弟が殺害されると、直親の息子・亀之丞を逃しました。小野和泉守の刺客が亀之丞を襲うことを恐れ、居場所は井伊家でもごく一部の者に知らせてなかったといいます。まだ幼い直虎にも居場所は教えていませんでした。亀之丞が匿われたのは信濃の松源寺。龍潭寺と同じ臨済宗妙心寺派のお寺です。南渓が松源寺を仲介して匿ってもらったといわれています。

直虎は亀之丞が死んだと思い込み悲しんで尼になろうとします。南渓のもとで出家することになったのですが、直虎の両親、盛親と祐椿尼は直虎が尼になることには反対でした。出家するなら層にしてくれと南渓に頼み込んだといいます。当時、僧は出家しても世俗に戻ることができました。しかし尼は世俗に戻ることはできないとされていました。これは当時の男は戦で死ぬことが多く、後継者がいなくなった家では出家していた者を戻すことが合ったからだと言われています。

しかし、当時の直虎は世俗に戻るつもりはなく尼になることを望みました。困った南渓は「次郎法師」という名前をつけました。

 

”次郎”は井伊家の当主が受け継いでいた名前。出家したことを意味する”法師”をつけて次郎法師としました。直虎は井伊家の嫡子だから”次郎”を名乗る資格がある。ということです。次郎は男の名前でもありますから、いざという時は世俗に戻ることもできる。と南渓は考えていたのかもしれません。

その後、次郎法師は南渓のもとで層としての修行に励みます。龍潭寺は禅寺でした。南渓は次郎法師に禅僧としての修行をさせたと思われます。当時の禅僧は仏の道だけでなく学問の知識もありました。歴史、算術、天文学、土木、医術など多くの知識を兼ね備えた知識人でもあったのです。戦国武将の参謀として活躍した禅僧もいるくらいです。この時の修行は直虎が領主として活動するときの助けになったかもしれません。

天文23年(1554)、小野和泉守政直が亡くなると南渓は井伊家の人々と相談して亀之丞を呼び戻すことにしました。井伊谷に戻ってきた亀之丞は元服して盛親となり井伊直盛の養子になりました。しかし次郎法師ではなく奥山朝利の娘と結婚しました。当時、家を継ぐために世俗に戻ることはあっても、結婚のために世俗に戻ることが許されたたのかどうかはわかりません。また、奥山朝利は井伊家の親族でも最も力のある家柄です。小野和泉守はなくなったとはいえ、息子の小野但馬守正次も侮れない相手でした。直盛や南渓は一族の安泰を考え、有力な家との婚姻で井伊家の力をつけることを優先させたのかもしれません。

永禄5年(1562)。井伊家を継いでいた直親が謀反の疑いで今川家によって殺害されてしまいます。直親の家臣も処刑されました。南渓は直親と家臣の遺体を引き取り供養しました。さらに奥山朝利まで殺害されてしまいます。

後継者のいなくなった井伊家をどうするか。南渓は考えました。直親には息子の虎松がいましたが、守ってくれるはずの奥山朝利まで他界してしまいました。4歳の虎松では当主は務まりません。南渓も井伊家の出身ですが、養子です。血縁者が途絶えたわけでもないのに家督を相続するわけにはいきません。南渓は祐椿尼と相談して、次郎法師を井伊谷の地頭(領主)として今川家に認めさせます。次郎法師は虎松の後見人となり、井伊家を相続することにしたのです。次郎法師はすぐに世俗に戻ったわけではなくしばらくして直虎と名乗ったといいます。

南渓は直虎とともに幼い虎松を小野但馬守から守るため手をつくしました。新野氏や鳳来寺らに匿ってもらいました。

今川家が滅亡し、小野但馬守も処刑されます。
天正2年(1574)。龍潭寺で虎松の父・直親の13回忌が行うたけ虎松を鳳来寺から龍潭寺に呼び戻します。しかし、法要が終わっても鳳来寺には返さず、母の再婚先の松下家で育てることにしました。松下家は浜松にあり、徳川家の収める場所でした。鳳来寺は虎松を返すように言ってきましたが南渓が交渉して認めてもらいました。

その後、虎松が松下家に引き取られて三ヶ月後。虎松は徳川家康に士官することになります。

次々と男子が亡くなる井伊家で井伊家を助けたのが南渓でした。直虎や祐椿尼など残された女性の相談相手として、対外的な交渉役として直虎たちを支え井伊家を守った功労者といえます。

 

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
楠戸義昭,この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎 PHP文庫
歴史REAL おんな城主 井伊直虎の生涯,洋泉社MOOK 歴史REAL
井伊家のひみつ,ぴあMOOK

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