井伊直虎(2017年大河ドラマ主人公)はどんな女性?

丸に橘

井伊家の家紋「丸に橘」

2017年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」に決定。

城主ってことは、武士の時代の話ですよね。女性が城主ってありえるの?しかも、名前が「直虎(なおとら)」って男の名前じゃないの?と疑問がわいてきます。

井伊家というと、誰を思い出しますか?桜田門の変で暗殺された大老・井伊直弼?徳川四天王の一人、井伊直正?彦根城?(江戸時代の井伊家の城ですね)ひこにゃん?(彦根のマスコットキャラですが)

すべて関係してます。

井伊直虎は井伊直弼のご先祖。井伊直正の育て親にあたる人です。

女性で城主だったという直虎ってどんな人だったのでしょうか?井伊 直虎は戦国時代の末期に井伊家の当主をつとめた人ですね。井伊家の家系図には正式には当主としての名前はありません。でも一時期実質的な当主を務めました。

ちなみに、彦根城は江戸時代になって井伊家が居城にした城なので、直虎が城主をつとめたことはありません。

 井伊直虎のおいたち

名 前:井伊直虎(いいなおとら)
出家後:次郎法師
戒名:妙雲院殿月船祐圓大姉、月泉祐圓禅定尼
生 年:年(1679年)
没 年:年月日(1703年)
父:井伊直盛
母:祐椿尼

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井伊直虎(いいなおとら)はどんな女性?

井伊直虎は遠江・井伊谷城の城主、井伊直盛(いい なおもり)の娘です。
幼いころの名前は分かっていません。

男兄弟はいません。直盛の従兄弟・亀之丞(直親)が直虎の許婚となり、井伊家を継ぐ予定になってました。

当時の井伊家は今川家に服従する地頭(地方領主)にすぎませんでした。

でも亀之丞の父・井伊直満と直義が今川家に謀反の疑いをかけられて切腹に追い込まれます。
亀之丞は9歳とまだ幼かったので身を隠すために逃がされました。井伊家では亀之丞は死んだことにしました。亀之丞の消息は家中でもごくわずかなものしか知らなかったと思われます。誰から漏れて小野和泉守や今川に伝わるかわからないからです。少なくとも子供だった直虎には消息は明かされなかったと思われます。

許婚が死んだと聞かされて直虎は亀之丞がいないのなら生きていても意味はないと出家してしまいます。両親は反対しましたが彼女の意志は強く出家することになりました。まだ十代になるかならないかの若さだったといいます。亀之丞の死がよほどショックだったのでしょう。

次郎法師(直虎)は何歳で出家したのか?

ちなみに、次郎法師が出家した年は記録がありません。何歳に出家したのかわからないのでいくつかの説が作られました。5歳から20歳までさまざまです。次郎法師の生まれた年もわかりません。亀之丞の生年はわかっています。父を殺され井伊谷を出たのが9歳の時。直虎の年齢は許嫁の亀之丞とあまり歳は離れていないだろうと考えるのが一般的です。出家した年齢は記録がないので考え出すときりがないです。いずれにしても、いまのところ記録がないのでわかりません。

どんな説があるのかこちらの記事にまとめました。
次郎法師(井伊直虎)は何歳で出家したのでしょうか?

どうして男の名前になったのか

出家した直虎に対して南渓和尚が付けた名前は「次郎法師」でした。次郎は男の名前。法師は男が出家したときに付けるものです。祐圓尼という言い方もしますが晩年になって名乗ったものです。

本人は尼としての名前を希望していました。しかし当時の禅寺の習慣では僧は世俗に復帰できますが、尼は復帰できません。

当時、男が戦で死ぬことが多く家系が途絶えてしまう恐れがあったためだったといわれています。尼になった場合、死者としての戒名を付けて名乗りました。つまり死んだことになってるのです。

両親は尼になることだけはやめるように南渓和尚に頼み込みました。そこで南渓和尚がつけた名前が次郎法師でした。

「次郎」というのは井伊家の当主が受け継ぐ名前でした。また、当時の風習として一度出家した尼は二度と世俗に戻ることはできませんが、法師は仏門の世界から世俗に戻ることができました(上杉謙信や今川義元も出家したあと当主になっています)。つまり、南渓は後継ぎのいない井伊家を心配していたのかもしれません。当時は9歳の亀之丞が生き残っているとはいえ、無事成人して戻ってこられるとは限りません。後継者がいなくなれば直虎を当主にさせることを考えていたのかもしれません。

戻ってきた許嫁

でも、亀之丞は生きていました。信濃の国で秘かに隠れ住んでいたのです。直満殺害の原因を作った小野和泉守が亡くなり、謀反の疑いが晴れて井伊家に戻りました。亀之丞は井伊直盛の養子になり、直親と名前を改めました。

直親が生きていたことは嬉しかったものの。次郎法師はすでに仏門に入った身。今さら結婚はできません。

直親は別の女性と結婚して子供も生まれます。ところが父・直盛が桶狭間の戦いで戦死します。

井伊家は直親が相続しました。しかし直親は今川氏真から謀反の疑いをかけられ殺されてしまいます。

直親には息子の虎松がいましたが、まだ2歳でした。

次郎法師はなぜ城主になったの?

そこで南渓和尚と母・祐椿尼は相談しました。虎松が成人するまで次郎法師が井伊家の当主をつとめることになったのです。虎松はしばらくは実母に育てられましたが身の安全のため寺に預けられることになりました。

仏門から世俗にもどるにあたって、次郎法師から直虎に名前を変えたと言われています。男風の名前を付けたのは「一度死んで生まれ変わったことを意味する」とするためだったとも、「女であることを隠す」ためだったとも言われます。

実際には地頭になっても次郎法師の名前で書状を発行しています。次郎法師のまま地頭として活動していたのかもしれません。直虎の名を使いだしたのは地頭になってしばらくして。井伊徳政令を出した時の書状しか残っていません。次郎法師の名前でいる期間が長かったのかもしれません。

永禄9年。今川氏真は井伊谷に徳政令を出すように命令します。井伊家は今川の支配下にあるとはいえ。井伊谷は今川の直轄領ではありません。井伊家が治めています。今川の命令だからと言ってすんなりとは聞くわけにはいきません。徳政令とは借金を棒引きにする命令です。お金を借りた領民は助かりますが、お金を貸した者たちは困ります。井伊家は商人から借金をしており、商人を追い詰めるようなことはできません。また、当時寺も領地から入る収入をもとにお金を貸して高利貸のようなことをしていました。井伊家の菩提寺龍潭寺も行っています。徳政令は井伊家の菩提寺も苦しめることになります。

次郎法師はできるだけ徳政令を出すことを後回しにしました。さらに次郎法師は龍潭寺や井伊谷の商人は徳政令が出ても担保として預かった土地を返さなくて済むように根回しをします。

永禄11年。今川家は徳政令を出すことを強硬に主張しまし。次郎法師も徳政令の発行します。このとき、今川家家臣・関口経行と次郎直虎の連名で徳政令を出す書状が発行されました。この書状が直虎の署名のある唯一の資料です。次郎法師の名前は直虎だという根拠になったものです。

その後、小野但馬守によって井伊谷を追われて、龍潭寺で暮らします。

そ の間も直虎は虎松を一人前の武士になれるように育てました。成長した虎松は万千代と名前を変え徳川家康の小姓にとりたてられます。このときも万千代が家康 に取り立てられるように直虎がとりはからったと言われています。万千代は家康の身近で仕え、ときには家康の寝所に忍び込んだ忍者を撃退することもあったと いいます。
その後万千代は元服して井伊直正と名前を変えます。

井伊直政となったかつての許婚の子どもの成長を見届けると、直虎はこの世をさったということです。

こうしてみると、直虎は有名ではありませんが波乱にとんだ人生ですね。

ここに書いた意外にも井伊家にはさまざまな苦難がまちうけます。井伊家にとって大変な時期を直虎がうまく守って直正の時代に引き継ぎました。ドラマではどのように描かれるのでしょうか。