織田有楽斎とはどんな人

五瓜に唐花

織田長益。有楽斎の方が有名ですね。
織田信長の弟の一人ですがあまり信長時代の活躍は聞きません。
姪の茶々が秀吉の側室になると、茶々の後ろ盾となりました。
大坂の陣のときには大阪城にいた人物。

織田有楽斎とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 織田長益・有楽斎

名前:織田長益(おだ ながます)
通称:源五郎(げんごろう)
剃髪後:有楽斎(うらくさい)

生年:天文16年(1547年)
没年:元和7年(1622年)

父:織田信秀

兄:織田信長 他

織田信長の弟ですが13歳年下でその前半生はほとんどわかっていません。

天正2年(1574年)。尾張国知多郡を領地として与えられ大草城を回収して居城とします。

天正10年(1582年)。信長の長男・織田信忠の指揮下に入り武田勝頼を攻めた甲州征伐に参加します。木曽口から鳥居峠を攻め、木曽義昌に協力して鳥居峠を攻略しました。

武田氏滅亡後、馬場昌房から深志城を受け取りました。
その後も信濃・上野方面に残り、森長可らとともに上野国に攻め込み木幡氏を降伏させました。

本能寺の変あと

本能寺の変では織田信忠と共に二条御所にいました。しかし、城を脱出すると安土を経由して岐阜へ逃げました。その後は信長の三男・信勝に仕えました。

小牧長久手の戦いでは徳川家康に味方しました。家康は織田信勝を助けるという大義名分で豊臣秀吉と戦ったからです。

その後、豊臣秀吉と徳川家康の和平を仲介。

天正16年(1588年)。豊臣秀吉から豊臣姓を与えられました。このころ千利休の弟子となり茶道を学びました。

天正18年(1590年)。織田信雄改易後は、豊臣秀吉の御伽衆となり摂津国島下郡(大坂府摂津市)に2000石を与えられました。このころ頭を丸め、有楽斎と名乗るようになります。

姪の茶々が側室になって以降は、茶々の保護者的な存在となりました。

関ケ原の戦

関ケ原の戦いでは、徳川家康に味方しました。長男・長孝とともに450の兵をつれて参戦しました。少ない兵でしたが、宇喜多、大谷、石田勢と戦いました。

関ケ原の戦い後、大和国に3万2000石、長孝は美濃野村に1万石を与えられました。関ケ原の戦いあとも有楽斎は大坂城には出入りし、茶々を助けました。

大坂の陣

豊臣家と徳川家が険悪な状況になっても有楽斎は次男の頼長と共に大坂城にいました。大坂冬の陣では、大野治長と共に穏健派の中心人物として影響力を持っていました。しかし次男(当時は長孝が死去していたので事実上の嫡男)頼長は強硬派だったのでしばしば対立しました。

冬の陣の末期、大野治長と共に幕府と和睦するため尽力します。このとき有楽斎は幕府に人質を出しました。

しかし、再び戦が避けられない状況になると大坂城を脱出。徳川家康も有楽斎が大坂城をでることを認めます。その後は京都に移り住み茶道などの趣味の世界に生きました。元和7年(1621年)死去。享年76.

 

逸話

東京都にある有楽町(ゆうらくちょう)は、有楽斎にちなみます。関ケ原の戦いのあと。数寄屋橋付近に屋敷を与えられ住んでいました。屋敷跡が有楽原と呼ばれていたため、明治時代に屋敷跡が有楽町となったといわれています。

 

大河ドラマ「真田丸」の織田有楽斎の記事はこちら。
「真田丸」織田有楽斎が怪しすぎる。もしかして徳川と内通してるの?

 

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