大野治長の弟、大野治胤・大野治純とはどんな人

大野治長には兄弟がいました。

大野治房までは知ってる人はいると思いますが、他にも弟がいたなんて知ってましたか?

あまり有名ではありませんが、それぞれに重要なエピソードがあります。

知られざる大野家の三男・治胤と、四男・治純について紹介します。

大野治胤(おおの はるたね)

父:大野定長
母:大蔵卿局
兄:大野治長、治房、弟:治純

大野治長の弟。大蔵卿局の三男です。
豊臣秀頼の小姓として仕えていました。

大坂冬の陣

野田・福島の戦い
大野治胤は天満川と木津川の合流地点に水軍を配置。水軍の基地として野田・福島地区に船倉を作っていました。さらに福島地区に船倉を守るために治胤の部隊800が守っていました。

11月19~26日にかけて幕府軍が攻めてきたので何度か戦闘が発生しました。
11月28日夜。大雨のなか幕府が攻めてくると、兵が怖気づいて逃げてしまいます。福島の砦は占領されてしまいました。そのせいで橙武者(見かけ倒しでやくだたず)と言われました。

大阪夏の陣では大野治房とともに出陣。
堺の街を焼き討ちにしました。大阪の陣のあと幕府に捕まりました。堺の町衆は、京都所司代の板倉勝重に治胤を引き渡すように求めると、勝重は治胤を引き渡しました。堺の町衆は治胤を火あぶりにして殺してしまいました。

大野治純

父:大野定長
母:大蔵卿局
兄:大野治長、治房、治純

大野治長の弟。大蔵卿局の四男です。

兄たちとは違い、幼い頃から徳川家の人質になっていました。そのせいか徳川家康に使えるようになっていました。

大阪夏の陣が始まる前、大阪城を訪れました。大阪城内で襲われて負傷した大野治長を見舞うためだといいます。

治純は家康から真田信繁と長宗我部元親らが徳川と内通しているという偽の手紙を見せられていました。治純は信繁らが裏切ると信じていたようです。治純は治長を訪れてその内容を伝えました。治長も弟の言葉を信じて淀殿に伝えます。その結果、秀頼の出陣が中止になったとされます。

大阪の陣のあとは摂津大坂藩に仕えたと言われます。