大谷吉継・関ヶ原に散った義の名将

対い蝶
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大谷吉継の家紋 対い蝶

大谷吉継(おおたに よしつぐ)は石田三成と共に徳川家康に立ち向かった武将。

最初から家康に敵対していたわけではありません。
むしろ家康を天下をとれる武将と評価していました。

それでも家康と敵対する道を選んだのは、
石田三成との深い関係があったからだと言われています。

関ヶ原の戦いで西軍の中心となって奮戦し、散っていった大谷吉継。

大谷吉継とはどんな武将だったのでしょうか。

 

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大谷吉継とは

 

永禄2年(1559年)、近江国(滋賀県)で生まれたといわれます。
父は大谷 吉房、浅井家の家臣です。浅井家滅亡後は織田家か秀吉に仕えたとされます。
母は東殿。おね(北政所)の取次役だったとされます。

天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後、北近江を支配することになった羽柴秀吉に仕えるようになります。
このころ石田三成、片桐且元ら近江出身武将が秀吉に仕官しています。
吉継も同じころだと思われます。

その後は、秀吉の播磨攻め、毛利攻めに参加。

信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立します。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦。
長浜城主・柴田勝豊を調略します。その後も石田三成とともに出陣。
賤ヶ岳七本槍に匹敵する活躍をみせたといいます。

天正13年(1583年)。紀州攻めに出陣。最後まで抵抗を続ける杉本荒法師と戦い、槍で倒したといわれます。

天正14年(1589年)、九州攻めに出陣。石田三成の下で活躍。
三成が堺奉行になると、その元で働きました。

天正17年(1589年)、越前国敦賀郡2万石を与え、敦賀城主になりました。

秀吉は北条攻めを決意しましたが、徳川家康の出方が気になりました。
吉継が家康の下に派遣され、家康の協力を取り付けることに成功しました。

天正18年(1590年)、小田原攻めに出陣。
石田三成の指揮の下、忍城ぜめを行いました。
途中で真田昌幸、真田信繁も合流しましたが。
小田原城落城まで忍城が残りました。

この戦いの後、加増されて敦賀5万石になりました。
水軍を編成します。
敦賀は海上交通の重要な場所でもあり、秀吉から信頼されていたことがわかります。

このころ、真田信繁に娘を嫁がせました。
豊臣家に近い大谷吉継と信繁の婚姻は、秀吉の考えたもの。真田家を豊臣方に引き込むつもりだったといわれます。

朝鮮出兵では、船の調達、輸送を担当しました。

文禄3年(1593年)ごろからは、公の場にすがたをあまり見せなくなります。
このころ病を発病したとも言います。
吉継の病は業の病、つまり前世の罪でかかる病です。不治の病のことで。ハンセン病だったのではないかという説が有力です。

慶長5年(1597年)、豊臣秀吉が死亡。
その後は、徳川家康よりになります。

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秀吉亡き後の吉継

 

慶長5年(1600年)。徳川家康が上杉景勝に対して謀反の疑いをかけたとき。吉継は家康が景勝に大坂に来るように送った書状に名前を書いてます。この時点では家康に味方していたことになります。

6月11日。大坂城で行われた会議で、家康は上杉攻めを決定します。その場には吉継もいて、上杉攻めに賛成しています。このときも吉継は家康の能力を「天下の主になる人物だ」と高く評価していました。

このとき、家康は会津征伐(上杉攻め)が終わったら、吉継を12万石に加増すると約束したといわれます。家康も吉継を高く評価していたのです。

吉継は家康軍に合流すべく、3000の兵を率いて敦賀をでました。
途中、石田三成の居城、佐和山城に立ち寄ります。三成と家康を仲直りさせるため、三成の息子・石田重家を自分の軍に入れようとしためだといわれます。

しかし、三成から挙兵して家康を討つと打ち明けられます。吉継は家康と戦っては勝ち目はないと、挙兵をやめるようよう説得します。

しかし、三成は挙兵をやめようとしません。その熱意に負けた吉継は三成に味方することにします。負ける戦とは思いつつも、三成との仲を選んだとも言われます。そのとき三成に対して、「お前は横柄だから、檄をとばしても従うものはいないだろう。安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立てて、お前は影に徹するのだ」と言ったといいます。吉継は一族を挙げて三成に味方することにしました。

その後は、大坂にいた真田昌幸の妻(山手殿)を保護。

吉継の母・東殿は高台院(おね)の代理として宇喜田秀家が行った出陣式に出席しました。

 

北陸の関ヶ原を演出

 

その後、吉継はいったん敦賀に戻り。家康に味方している加賀の前田利長に対抗するため、周辺の大名を調略。丹羽長重、丹羽長正、青木一矩、織田秀雄、山口宗永、上田重安ら、敦賀、越前方面の諸大名の大半を味方に引き込みました。

その後、吉継は鳥居元忠の篭る伏見城の戦いに参加します。

7月。周辺の大名が敵になったことにあわてた前田利長は丹羽長重の小松城を攻めます。しかし落せません。

8月。吉継は水軍を出すなどの偽情報を出して、利長を動揺させて撤退に追い込みます。

丹羽長重は撤退する前田軍に襲い掛かります。3000の丹羽軍は地形を利用し前田軍に被害を与えますが、2万5千の大軍相手には勝てず撤退。利長はなんとか金沢に戻りました。

この戦いは浅井畷の戦いと言われ、北陸の関ヶ原といってもいい戦いでした。
その後、家康の命令で再び攻めてきた前田利長に対して丹羽長重は降伏しましたが、前田軍を北陸に釘付けにして関ヶ原に行かせなかったという働きをしました。

 

壮絶な関ヶ原の戦い

 

9月。吉継は美濃に出陣。
9月15日。関ヶ原の戦いを迎えます。
吉継は、戸田勝成・平塚為広の兵を合わせて5700の兵を率いて、関ヶ原の西南・藤川台に布陣します。
大谷軍は西軍の主力として戦いました。
午前中は、藤堂高虎、京極高知の軍を相手に善戦します。

午後になって、小早川秀秋の1万5千が家康側に寝返ります。小早川軍は大谷軍を攻撃して来ました。小早川の動きを不審に思っていた吉継は直属の兵600で迎え撃ちます。さらに戸田勝成・平塚為広と合流して小早川軍を撃退。数で勝る小早川軍を2度、3度と押し返しました。
しかし、小早川軍に備えて配置しておいたはずの脇坂、朽木、小川、赤座ら4200も寝返り大谷軍を攻撃してきました。

さすがの大谷軍も圧倒的多数の兵に三方向から攻められて、壊滅。
吉継もこの戦いで自害します。享年42。

大谷軍の壊滅は西軍に大きな動揺を与え。
西軍は敗退することになります。

裏切りの相次いだ西軍にあって、大谷吉継とその兵は最後まで戦い散っていきました。

大谷吉継は義に厚い名将として後世に名を残すことになります。

 

石田三成との関係

 

石田三成とは、年が同じ。
同じ近江出身。仕官した当初から一緒に行動することが多く。
仲がよかったといいます。
吉継は三成に対しても遠慮なくものが言える間柄でした。

武将同士の友情が珍しかった当時。吉継と三成は男色家ではないかと噂されることもあったといいます。

 

 

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大谷吉継の子供

 

大谷 吉治
関ヶ原の戦いでは北陸で前田軍と戦った後、関ヶ原に移動。
吉継と共に戦うも敗退。敦賀に落ち延びて浪人となります。
大坂冬の陣に参戦。義弟にあたる真田信繁とともに戦います。
大坂夏の陣で討死しました。

 

大谷吉継の娘

竹林院・真田信繁の正室とは

 

 

 

 

 

 

 

 

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