小野万福(亥之助・朝之)。虎松(井伊直政)を支えた従兄弟

丸に橘

小野玄蕃の息子として生まれ、虎松とともに育った小野亥之助。ドラマでは子供のいない小野但馬守政次に可愛がられ、小野家の跡継ぎのような立場に描かれています。

実際は、小野但馬守政次の弟・小野玄蕃の息子として生まれ、小野家からは離れて井伊直親の屋敷の近くで育ちました。幼いころより直親の息子・虎松とともに育ちます。

成長した亥之助は、虎松とともに徳川家康に召し抱えられます。家康の小姓時代は中野万福。元服後は、中野朝之と名乗り井伊直政を支える家臣となります。

 

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小野亥之助(万福・朝之)は直政の家臣

名 前:小野朝之(おの ともゆき)
幼 名:亥之助、万福
生 年:永禄2年(1559年)?
没 年:?
父:小野朝直
母:奥山朝利の三女

小野玄蕃には息子がいました。亥之助といいます。亥之助の母は奥山朝利の娘。つまり虎松(井伊直政)とはいとこになります。亥之助と虎松はともに育ったといわれています。

亥之助は2歳の時に父を桶狭間の戦いで亡くしました。虎松も幼いころ父・直親を亡くしています。ほぼ同年代で似た境遇のため特に親しくなったのかもしれません。虎松が徳川家に仕官することにしたとき、亥之助は真っ先に虎松の家来になることを志願したといいます。

徳川家康は虎松とともに亥之助も召し抱えました。万福という名前を与えられ、小姓としてつかえます。

万福は元服して小野朝之と名乗りました。
朝之は井伊直政に付き従い数々の合戦に出たといいます。

直政が彦根藩主となると彦根藩に仕えました。

直政の長男・直勝(直継)は病弱を理由に彦根藩主を解任されます。代わりに上野国安中藩3万石の藩主となりました。小野朝之の孫・古豊は安中藩の家老となりました。その後・直勝系井伊家は与板藩に移動します。与板藩でも小野家は家老を務めました。子孫の小野七郎左衛門は井伊家の分家筋にあたる与板藩の家老でした。井伊家伝記の作成に協力したと言われています。

小野家の人々は井伊家の人々から裏切り者あつかいされることもあったかもしれません。でも、玄蕃とその子孫たちは井伊家のために尽くしたのでした。

 

 

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