大井夫人(瑞雲院)・息子たちにも慕われた武田信玄の母

武田菱
武田菱

大井夫人は武田信玄の母親です。
武田信虎と争っていた大井氏から人質として武田に来ました。信虎の正室となります。

晴信は信虎を追放しますが、母の大井夫人は甲斐国で暮らしました。

息子の教育に熱心で、ときとして戦場にいる息子に手紙を送ることもありました。

夫・信虎と息子・信晴の仲はよくありませんでしたが、大井夫人と子どもたちの仲は良かったようです。

大井夫人とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 大井夫人とは

 

名 前:不明
通 称:大井の方、御北の方
生 年:明応6年11月17日(1497年12月10日)
没 年:天文21年5月7日(1552年5月30日)
父:大井信達
夫:武田信虎
子:信晴(信玄)、信繁、信廉(逍遙軒信綱)、定恵院(今川義元室)

大井信達の娘として産まれます。
大井氏は甲斐国守護武田家の一族。ところが、甲斐国では守護の武田氏と領主たちが争っていました。武田氏からはいくつもの支族が誕生しましたが、独立の気風が強く一族同士で争っていました。大井信達は駿河国今川氏と手を結び武田信虎と対立します。

永正14年(1517)。武田信虎は小山田氏とともに大井・今川連合軍を取り囲んで持久戦にもちこみました。大井信達は信虎に使者を送って和睦しました。

和睦の印に信虎のもとへ送られたのが大井信達の娘でした。彼女は信虎の正室となりました。大井氏から来たので大井夫人、大井の方とよばれます。正室となったものの人質のようなものでした。降伏した方が娘を人質として送るのはよくあることでした。

大井氏は武田家の家臣となります。
大井夫人の弟が武藤家を継ぎました。武藤家は武田の親戚筋に当たる由緒ある家柄です。

信虎には何人もの側室がいましたが、立場も家中での存在感も大井夫人が最も高かったといいます。子供や家臣からも慕われていました。

信虎との間には3男1女ができました。長男が信晴(信玄)です。

長男の晴信が生まれる直前。今川家の福島正成の軍が攻めてきました。躑躅ヶ崎館を出て、要害山城に避難しました。晴信は要害山城で産まれたといいます。

大井氏の菩提寺・長禅寺に岐秀元伯をまねき、信晴の師としました。信晴は岐秀元伯のもとで四書五経、孫子、呉子などを学んだと言います。子供の教育にな熱心な母親だったようです。

天文10年6月(1541年)。晴信が信虎を追放し、武田家の家督を相続しました。信虎は駿河国今川義元のもとで暮らします。

大井夫人は甲斐にとどまりました。出家して躑躅ヶ崎館の北の隠居曲輪で暮らします。そのため御北様とよばれるようになりました。

天分17年(1548年)。信晴は信濃国を攻めます。上田原の戦いで大敗します。しかしその後も戦場にとどまったことから、大井夫人が手紙を送り退却を促しました。

天文21年(1552)5月7日。亡くなります。享年56。戒名は瑞雲院殿心月珠泉大姉

 

ドラマ

武田信玄 1988年、NHK大河ドラマ、演:若尾文子
武田信玄 1991年、TBS、演:岩下志麻
風林火山 2007年、NHK大河ドラマ、演:風吹ジュン

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