於大の方・徳川家康の母は苦労人

徳川家康の母は於大の方です。家康は歴史上の超有名人ですが、その母親となると意外と知られていないのではないでしょうか?

松平家に嫁入したのに、実家が裏切り離縁されたり。実家の都合で再婚したり。息子・家康に兄が殺されたり、夫が失踪したりと家康の母も戦国の世で苦労した人なんです。

於大の方とはどのような女性だったのでしょうか。

 於大の方とは

名 前:水野 大(みずの たい)、太という説もあります。
通 称:於大の方(おだいのかた)
法 名:伝通院
生 年:享禄元年(1528年)
没 年: 慶長7年8月28日(1602年10月13日)
父:水野忠政
母:於富の方(於満の方ともいいます・法名は華陽院)
夫:松平広忠、久松俊勝
子:
松平広忠との子
徳川家康

久松俊勝との子
松平康元、松平康俊、松平定勝、多劫姫、松姫、天桂院

享禄元年(1528年)。お大の方は緒川城(愛知県東浦町)で生まれました。

父は尾張国知多郡の豪族、水野忠政です。

母・華陽院は美しい人だったといいます。かつて水野忠政は松平清康と戦って破れ同盟を結びました。

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於大の母も波乱の人生

ところが当時妻をなくしていた松平清康は於富の美しさにすっかり気に入ってしまいました。清康は人妻を和睦の条件として於富を差し出すことを条件にしたのです。断れは水野家は滅ぼされてしまいます。水野忠政は泣く泣く於富と離縁。於富は松平清康の継室になりました。

ところが松平清康はその後、家臣に暗殺され松平家は相続問題でモメてしまいます。今川義元の助けで松平家の当主になったのが清康と先妻との間に産まれた松平広忠でした。

於富は清康の死後、3人の部将に嫁ぎますがいずれも死別。今川義元を頼って駿府で尼になりました。

於大が松平家に嫁ぐ

天文10年(1542年)。このころ水野忠政は織田信秀に協力することもありましたが、主に三河国の領主とも同盟を維持して領地が脅かされないようにしていました。

そこで忠政は松平家とさらに縁を深めるため娘の於大を松平広忠に嫁がせました。

於大は親子揃って松平家に嫁入したことになりますね。

天文11年(1543年)。岡崎城で於大は長男・竹千代(後の徳川家康)を出産しました。

結婚した翌年に息子が産まれました。それなりにしあわせな新婚生活だったようです。

天文12年(1544年)。竹千代の長生きを祈願するため、三河国妙心寺に薬師如来を奉納しました。

実家が裏切り

天文12年(1544年)。父・水野忠政がなくなりました。

ところが、跡を継いだ異母兄・信元は方針を変えてしまいました。織田に味方して今川家を裏切ったのです。

松平家は今川家と同盟(というより服従)していた時期です。今川家に敵対すると松平家とは敵対することになります。

松平広忠は今川義元のおかげで松平家の当主になれたので、今川義元には頭が上がりません。今川家との関係が悪くなるのを恐れた広忠によって於大は離縁されてしまいました。息子・竹千代は松平家に残され、自分だけが水野家に戻ることになりました。

竹千代を育てたのは於大の母で今川家に身を寄せていた華陽院でした。自分の母が息子を育ててくれることがせめてもの救いだったでしょう。

天文14年(1546年)。於大は実家の水野家に戻され、三河国刈谷城(愛知県刈谷市)で暮らしました。

久松俊勝と再婚

天文14年(1546年)。兄・信元の命令で尾張国阿古居城(愛知県阿久比町)城主・久松俊勝と再婚しました。

久松家と水野家は同盟関係にありました。久松俊勝の妻も水野家の出身でした。俊勝の妻が亡くなったため、同盟を強化するために於大が嫁ぐことになったのでした。

俊勝との間には3男3女が産まれました。その間も家康のことは忘れず、連絡をとりあっていたようです。

息子・家康が独立

永禄3年(1560年)。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死に。家康は今川家から独立しました。このとき、家康が落ち延びるのを助けたのが兄の水野信元でした。桶狭間は水野家の領地の中、水野家も織田軍の一員として参戦していたのでした。

水野信元は独立した家康を助けました。夫の久松俊勝も家康に協力しました。

久松俊勝との間に産まれた康元、康俊が家康と会って「松平」の姓を与えられました。産まれたばかりの定勝も松平姓も与えられ一族に迎えられました。その後、息子たちは家康に仕えました。

於大と家康は一緒には暮らしていませんでしたが、会おうと思えば会えるようになったのです。

水野信元は家康と信長の同盟の仲介役もしました。家康にとって母の実家は大きな助けになりました。

嫁姑バトル?

永禄3年(1560年)。石川数正の交渉により駿府に残っていた家康の正室・瀬名と竹千代(松平信康)が岡崎にやってきました。

瀬名の息子・信康は岡崎城に入れました。でも、瀬名は岡崎城に入れてもらえませんでした。今川家と縁の深い瀬名姫を今川と縁を切った家康がいつまでもそばにおいておくわけにはいかない。という事情があったとは思います。

一説には於大の方が反対したからだともいわれます。於大は岡崎城では暮らしていなかったようなので直接嫁姑バトルがあったかどうかは分かりません。でも於大と家康は離れて暮らしていても連絡を取り合う仲でした。多少は影響があったかもしれません。

永禄6年(1563年)。久松俊勝との間に産まれた2番めの息子・康俊を今川家への人質に出すことになりました。

徳川家康は独立したとはいえ、表向きは今川家に従っていました。この時期の家康はまだ今川家と戦うほどの力はなかったのです。その後、康俊は今川氏真を追放した武田信玄によって甲斐に連れて行かれました。

元亀元年(1570年)。家康が武田家と交渉して康俊は戻ってきました。しかし、康俊は人質生活の間に凍傷になり両足の指を失っていたのです。

嫁は戻ってきたのに自分の息子を差し出した。しかもその息子は足の指を失ってしまう。於大はやりきれない思いになったかもしれません。

兄が処刑・夫が失踪?

天正3年(1576年)。兄・水野信元は織田信長に謀反の疑いをかけられてしまいます。信長は家康に信元処刑の命令をだしました。信長に逆らえない家康は石川数正に命じて信元を岡崎におびき寄せて殺害しました(自害させたという説もあります)。

信元の死を知った夫の久松俊勝は激怒。家康を恨み妻子を残して失踪。西郡城に引きこもってしまいました。

とつぜん夫がいなくなった於大は家康のもとで暮らすことになりました。

於大は久しぶりに息子と暮らすことになりました。でも心中は穏やかではありません。兄が殺害され、夫が失踪してしまいました。その恨みは石川数正に向けられたといわれます。

こうした石川数正や築山殿(瀬名)に対する於大の反感は、
天正7年(1579年)。松平信康の自害、築山殿(瀬名)殺害。
天正13年(1585年)。石川数正が豊臣秀吉に寝返った件。
にも関わりがあるのではないかと考える研究者もいます。

家康も頭があがらない

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いのあと、息子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が出ました。これには於大は猛反対。家康は養子に出すのを諦めました。於大は末息子の定勝をとくに可愛がっていました。そのため手放すのを強く反対したようです。

弟妹たちを政略の駒として利用してきた家康でしたが、このときばかりは母には勝てなかったようです。その結果、豊臣家の養子になったのが家康の次男・結城秀康です。

ちなみに、於大に愛された松平定勝はフリーアナウンサー松平定知さんのご先祖です。

徳川家のために奔走

天正15年(1587年)。久松俊勝が死去。於大は髪をおろして伝通院と名乗ります。久松俊勝の菩提をとむらいながら安楽寺で2年ほど暮らしました。

慶長7年(1602年)。徳川家と豊臣家が険悪になると年老いた体にむち打って豊臣家とのあいだを取り持とうとします。高台院や後陽成天皇と会って家康は豊臣家に敵対する意志はないと伝えました。

その年の8月。家康が滞在していた山城国伏見城(京都府京都市)で亡くなりました。享年75歳。