和宮親子内親王・幕末に将軍御台所になった悲劇の皇女

皇女和宮は幕末に徳川家茂の正室になった女性。

正式には和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)。幕末に皇族から将軍家に嫁いだ皇女として知られています。

将軍徳川家茂との仲は良かったようですが、大奥内では和宮派と天璋院派の女中の対立がおこりました。

朝廷と幕府の仲を取り持つために嫁いだにもかかわらず、倒幕運動ははげしくなり。皇女和宮をとりまく環境は悪くなる一方でした。さらには倒幕運動がおこり江戸幕府は終焉を迎えてしまいます。

悲劇の皇女として知られる和宮親子内親王について紹介します。

和宮親子内親王とは

名 前:親子(ちかこ)
称 号:和宮(かずのみや)
院 号:静寛院宮(せいかんいんのみや)
生 年:弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)
没 年:年月日(1877年9月2日)
父:仁孝天皇
母:橋本経子(観行院)
子:なし

和宮は仁孝天皇の8女として産まれました。仁孝天皇は子だくさんで7男8女をもうけていました。その末子でした。しかし成人した子供は少なく、和宮以外には敏宮、孝明天皇だけでした。

母は仁孝天皇の妃・経子(つねこ)。典持

しかし仁孝天皇は和宮を見ることなく亡くなりました。産まれた時にはすでに父親がこの世にいなかったのです。

和宮は母方の実家・橋本家で育てられました。当時の皇室では東宮以外は母方の実家で育てられるのが普通でした。

経子の父は権大納言実久。しかしこの時代の公家の生活は厳しいものでした。朝廷から養育費はでましたが、それでも十分とはいえなかったようです。和宮の衣装は仕立て直し(古着をもとに作り直したもの)がほとんどでした。

祖父の実久が死亡したあとは伯父の実麗(さねあきら)によって育てられました。

当時の皇女は格式の高い公家に嫁ぐのが普通でした。お似合いの嫁ぎ先がない場合は出家して尼になることもありました。むしろ尼になる方が圧倒的に多かったのです。

孝明天皇は妹の和宮のためにふさわしい相手を選びました。それが有栖川熾仁親王でした。このとき和宮はわずか6歳でした。まだ幼い和宮にとっては実感がわかなかったかもしれませんが、母の観行院は喜びました。尼にならなくてすむのです。

5歳になると熾仁親王の父・幟仁親王から習字をおそわり、6歳になると熾仁親王から和歌や漢詩を教わりました。

熾仁親王は17歳。10歳以上歳が離れていましたが、幼い頃から親しくしていた熾仁親王には親しみ以上の感情をもっていたことでしょう。その後も着々と婚儀の準備が進んでいきます。和宮は住み慣れた橋本邸を出て桂宮邸に移り住みました。

安政6年4月(1859年)。和宮は14歳。年が明けたら輿入れと決まりました。

ところが将軍家への下嫁問題がおきました。

将軍家への降嫁

当時、外国との対応、国内での飢饉への対策、尊王攘夷運動の高まりなどによって徳川将軍家の権威は落ちていく一方でした。逆に天皇家の権威は上がっていました。そこで将軍・徳川家茂に天皇家から正室を迎えて将軍家の権威をあげようとする動きがありました。

最初、候補に上がっていたのは孝明天皇の娘・富貴宮でした。富貴宮はわずか2歳でした。年齢的に家茂と会うのは和宮でしたが、すでに婚約者がいます。孝明天皇は形だけの政略結婚なら富貴宮でもいいだろうと考えていたようです。ところが富貴宮が病でなくなります。

そうなると候補は和宮しかいなくなりました。

和宮は兄の孝明天皇から将軍家茂夫人になることを告げられました。

和宮はきっぱりと断りました。孝明天皇は妹の意思を尊重して幕府に断ります。しかし幕府は諦めません。「結婚が実現すれば攘夷決行を行ってもよい」と朝廷に伝えてきました。孝明天皇は熱心な攘夷派でした。幕府の提案に心が動かされます。公家の岩倉具視も賛成しました。

幕府は母の実家橋本家、婚約者の有栖川家に圧力をかけてきました。大奥の老女・姉小路が上洛して買収工作を行いました。

和宮は再三拒否しました。

しかし朝廷内部の意見は和宮降嫁で決まりつつありました。しかし孝明天皇は和宮を気の毒に思い「産まれたばかりの娘・寿万宮を江戸に送ることにする。幕府がそれを拒否するなら譲位する」と返事を書き関白の九条尚忠におくりました。

ところがこの手紙が密かに和宮のもとに届けられました。だれが届けたのかは不明です。その手紙を見せられた和宮はあきらめて「承知」しました。

一方の有栖川家からは婚約の辞退を願い出る書状が提出されました。圧力が効いていたようです。

もともと孝明天皇は譲位派であり公武合体推進派でした。妹を出すことになったのは想定外だったかもしれません。将軍家への影響力を高めるために朝廷側も望んでいたことではありました。

ただし和宮は「御所風の暮らしをする」という条件を付け、孝明天皇もそれを認め幕府に伝えさせました。

文久元年10月20日(1861年)。和宮一行は京を出発しました。幕府も衰える威光を取り戻すのはこのときばかりと、街道を整備し大勢の人手を派遣してきました。警護のものをふくめると3万人、行列の長さは50kmという前代未聞の大行列でした。反対派が和宮を拉致するのではないかという噂もながれ、戦をするのと同じくらい物々しい装備で警護しました。

和宮の心を慰めようと途中の名勝を案内され場面もありました。有栖川宮のことが忘れられず、珍しい眺めや美しい紅葉も心の慰めにはならなかったようです。

11月15日。一行は江戸城内の清水屋敷に到着しました。

大奥に入るのに1ヶ月もかかったのは朝廷と幕府側で和宮の待遇について調整が長引いたためでした。

ところが事前に約束した「御所風の暮らし」は守られず、大奥では武家風の暮らしを求められました。「御所風は和宮に限り」という条件で大奥に入ることになりました。朝廷・幕閣・大奥で意思の疎通がとれていなかったようです。

12月11日。江戸城大奥に入りました。

年があけて文久2年2月11日(1862年)。和宮と徳川家茂の婚儀が行われました。家茂は内大臣の位、和宮は内親王。位では内親王が上です。左に和宮が座り、右に家茂が座るという。現在のひな壇(特に関東の場合)の並び方とは逆ですが。当時はこの並び方が一般的だったようです。

こうして和宮は御台所になったのです。

将軍家茂との関係

将軍家茂は和宮と同じ年。家茂は小柄で顔は細面で小さい方でした。関東の荒武者とは無縁、むしろ公家に近い風貌でした。そのことは和宮をほっとさせたかもしれません。

家茂は無口でしたが生真面目な性格で和宮に優しく接していました。病弱だった和宮を家茂は会うたびにいたわる優しさを見せました。周囲の者はうまくやっていけるのか心配していたようですが、二人の仲は良かったようです。

和宮は家茂に「宮」と呼ばせました。武家の妻のように夫にかしずくようなことはなくとも、仲睦まじくしていたようです。侍女たちが「東の代官(将軍のこと)とあまりむつまじくしてはなりません」と忠告するほどでした。

ところが問題は大奥の女性たちとの関係だったのです。

天祥院との関係

当時、大奥には先の将軍家定の生母・本寿院、将軍家茂生母・実成院、先の将軍家定の正室・天璋院(篤姫)がいました。

本寿院は二の丸大奥に移り会うことは殆どありません。実成院は将軍生母ですが、もとは紀州藩主の側室という身分。江戸城大奥では権力はありませんでした。

大奥大御台所として権力をもっていたのは天璋院でした。和宮が悩まされたのは天祥院との関係でした。お付きのもの同志も激しくいがみ合います。

和宮が江戸行きの条件としたはずの「御所風」という約束は大奥では守られていません。

対面の場面では、天璋院が上座に座り茵(座布団)を敷いていたのに対して、和宮は下座に座らされ茵はありません。

和宮は驚いたでしょうが、その場では大人しく座りました。むしろお和宮付きの侍女たちの方が腹を立てたようです。しかし素直に従うきはなかったようです。

和宮が持参したお土産の包み紙の上書きに「天璋院へ」と書かれていました。まず最初に腹を立てたのは大奥老女滝山や天璋院付きの侍女でした。

和宮は大奥の中で80人の侍女と共に御所風を貫きました。

老中に根回しして、「御台様」とはよばせず「宮様」と呼ばせました。言葉、髪型、化粧、衣装、調度品は御所風です。天璋院が用意させた家具や衣装は使いません。お目見えするときは几帳の中から。天璋院に対しても敬語は使いません。位では臣下なのです。

徹底した御所風を貫きました。6歳のときからかわした婚約を挙式直前で破棄させられ、嫌だというのを渋々認め、条件付きで江戸行きを認めたのです。

天皇の娘とはいえ、公家の娘でここまで自分を貫いた人は和宮だけでした。

当然のことながら天璋院派は和宮派の態度が許せません。いくら皇女といえども嫁として来たからには武家の習慣に従うのが当然という理屈です。

天璋院派は朝廷と幕府との間にかわされた「御所風」の条件の重大さを理解していませんでした。幕府の老中はそこまでしてでも朝廷の権威を借りたい。そうしなければ幕府の権威はますます衰えると考え、条件を飲んだのです。大奥の天璋院派たちはそれが理解できません。約束は表向きのものと軽くとらえ大奥のしきたりを押し付けていました。

それぞれの立場や考えの違いに加え意地の強いもの同志。なかなかうちとけません。

天璋院は和宮の家茂にたいする振る舞いを見て、妻として夫をたてていると思いました。和宮本人に対するわだかまりは徐々に薄れていったようです。

しかし二人は多くの人々を引き連れています。本人同志というより、お付きのもの達の対立が深刻だったようです。和宮付きの侍女も御所風を貫き、大奥の侍女たちを軽く見ていました。

さすがに滝山は縁組の重要性を理解して、何があっても京側と争ってはいけない。と女中たちに訓示を行います。しかし滝山本人も悔しかったようです。

大奥の主になった和宮

文久3年(1863年)。天璋院は本丸から二の丸に移動します。火災で消失していた西の丸が再建されるので天璋院には西の丸に移ってほしいと老中から言われました。どうやら朝廷からの働きかけのようでした。天璋院はこれが気に入りません。大奥は表の指図は受けないという自負があります。和宮は移らないでほしいと説得しますが、ますます腹をたてました。京風の遠回しな言い方が気に入らなかったようです。天璋院は西の丸の再建をまたず、二の丸に移動してしまいます。

「天璋院が本丸大奥に居続けるため、和宮の居場所がないのではないか」と朝廷の公家たちが噂していたのが原因だったといわれます。実際には和宮の暮らしは不都合はなかったようですが、朝廷側がいらぬ気をつかってしまったようです。

 慶応元年8月9日(1865年9月28日)。母の観行院が亡くなりました。観行院は後見人として大奥に入り、和宮を支えてきた大切な人です。和宮はしばらく寝込んでしまいました。

9月。外国の圧力に屈した幕府と朝廷は兵庫開港を認めます。和宮は朝廷に手紙をおくりました。「攘夷の実行を条件に徳川に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇に申し訳ない」というものでした。帰ってきた返事は「攘夷などという非現実的なことを言ってる場合ではない、戦争を避けるためにはやむをえない」というものでした。朝廷の言い分は正しいのですが、和宮としてはやりきれない思いだったでしょう。

家茂の死亡と静寛院宮

慶応2年7月20日(1866年8月29日)。将軍徳川家茂は第二次長州征伐の最中に病に倒れます。和宮の増上寺のお百度参りの甲斐もなく、家茂は病死しました。

家茂の死後、次の将軍が問題に成りました。

家茂は田安家の亀之助を後継に考えていました。天璋院も賛成でした。しかし亀之助はまだ4歳現実問題として将軍職が務まるはずがありません。

和宮は老中から亀之助でいいか聞かれて「時勢を鑑みて幼い亀之助ではいかがなものか。確かな後見人がいればいいが、そうでなければ然るべき人物を後継に立てるべき」と答えました。

老中・板倉勝静らは「一橋慶喜を将軍に」と判断しました。和宮も「亀之助が成人した暁には慶喜のあとを継がせればよい」と返事しました。15代将軍は徳川慶喜になりました。

静寛院宮は慶喜に対して「私の輿入れの目的である攘夷を進めてほしい」と手紙をおくります。しかし慶喜は黙殺します。

12月9日。和宮は落飾して静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗りました。

12月25日。兄・孝明天皇が死去。 

家茂の死後、静寛院宮は京に帰ろうと考えはじめました。夫はなく、攘夷もできない。となれば静寛院宮が江戸城にいる必要ありません。

外様大名から輿入れして徳川の一員になりきった天璋院とは考え方が違いました。静寛院宮の想いは天皇家の一員として役目を果たすことだったのかもしれません。

明治天皇の即位後、朝廷と幕府の間で静寛院宮を京に戻すことも話し合われました。しかし大政奉還から伏見鳥羽の戦いへと急激に時代が変化して、京に戻る機会を失いました。

慶応4年1月12日(1868年)。伏見鳥羽の戦いで破れた徳川慶喜が江戸城に戻ってきました。慶喜は天璋院の仲介で静寛院宮に面会。朝廷に恭順の意を示すので、隠居、継嗣の選定、謝罪に剣を静寛院宮にとりなしてほしいと頼まれました。静寛院宮は謝罪の件だけを引き受けました。

静寛院宮は天璋院と相談して朝廷に使者をおくりました。返事には「謝罪の道筋がたては徳川家の存続は可能」とありました。

3月14日。江戸城は開場が決定されました。静寛院宮は、田安慶頼の意見をうけて「徳川家存続のため恭順を貫くことが徳川家への忠節」と幕臣たちを説得しました。

4月9日。静寛院宮と家茂生母・実成院は、清水邸に移りました。天璋院と家定生母・本寿院は一橋邸に移りました。

21日。朝廷に寛大な措置を感謝する書状をおくりました。

閏4月12日。母方の実家・橋本実梁に徳川家が家臣を養えるだけの領地を得られるように書状をおくりました。

5月24日。徳川家に駿河国70万石に移動の命令が出ました。

その後、朝廷からは京に戻るようように要請がありました。明治天皇の東京行幸を待って京に戻ることになりました。

明治2年(1869年)。京に戻りました。父・仁孝天皇陵への参拝をおこないました。

その後、東京で暮らす橋本実麗や明治天皇が東京にくるように勧めます。

明治7年(1874年)7月。東京で暮らし始めました。天璋院や旧幕臣たちとの交流を深めました。

しかし脚気を患います。

明治10年8月(1877年)。療養のため箱根に滞在しました。

9月2日。療養先の箱根で亡くなりました。享年32。

家茂の側に葬ってほしいとの遺言どおり、東京都港区増上寺に葬られました。