西郷吉二郎(さいごう きちじろう)・隆盛にかわって西郷家を守り続けた弟

島津家家紋

西郷吉二郎(さいごう きちじろう)は、西郷隆盛(吉之助)の弟。西郷家の次男です。

家を留守にしがちだった西郷(吉之助)隆盛に変わって、西郷家を支え実質的な大黒柱となりました。

隆盛が藩や新政府の仕事に打ち込むことができたのも、吉二郎が家を守っていたからだともいえます。

西郷家はことごとく島津久光と対立、そのあおりをうけて西郷家は知行を奪われ、吉二郎も職を失ってしまいます。畑を耕しギリギリの生活をしながら西郷家を支えた吉二郎について紹介します。

 

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 西郷吉二郎(さいごう きちじろう)とは

 

名 前:西郷隆広(さいごう たかひろ)
通 称:吉二郎(きちじろう)
生 年:年(1833年)
没 年:年月日(1868年)
父:西郷吉兵衛
母:満佐
妻:マス(有馬九之丞の娘)、後妻:園(仁礼平蔵の妹)
子:西郷隆準、ミツ

1833年(天保4年)。薩摩藩士・西郷吉兵衛の次男として産まれます。

薩摩国鹿児島城下の加治屋町で生まれ育ちました。

1843年(天保14年)8月15日 藩主に初めてお目見え。

1852年9月27日(嘉永5年)。 父の吉兵衛が死去しました。翌年、兄の吉之助(隆永、後の隆盛)が家督を相続しました。

西郷家は大所帯なうえに借金を抱えていました。吉兵衛の稼ぎがなくなった西郷家は生活が苦しくなりました。

兄・吉之助は島津斉彬に抜擢されて頻繁に京や江戸に向かうようになりました。吉二郎は家を留守にしがちな兄に代わって家族を支えました。

1854年(安政元年) 。東郷仲五郎(のちの東郷平八郎)に習字を教えました。1857年(安政4年) 。御勘定所書役を務めていた。

1858年(安政5年)。藩主島津斉彬が死去。兄・吉之助は幕府に追われ奄美大島に身を隠すことになりました。吉二郎が事実上の主として西郷家を守らなくてはいけなくなりました。

その後、吉之助は復帰したものの、島津久光と対立して沖永良部島に追放されます。

さらに過激な尊皇攘夷運動を行っていた薩摩藩士が島津久光の命令で殺害される事件が派生(寺田屋事件)。弟の信吾(従道)、従兄弟の大山弥助(巌)らが加わっていたため西郷家は処分を受けます。信吾は謹慎処分を受け、吉二郎も職を奪われました。西郷家の領地・財産は没収されました。

西郷家でも最も苦しい時代でした。吉二郎は兄のいない間、田畑を耕し内職をして家を支えました。

1864年(元治元年)。兄・吉之助が薩摩藩に復帰。軍賦役(軍司令官)となりました。吉二郎も兄のもとで軍役につきます。

1868年(慶応4年)。戊辰戦争が始まりました。吉二郎は新政府軍の番兵2番隊監軍となり、越後国に出兵しました。各地で勝利を重ねる官軍でしたが、吉二郎たちが戦った北越戦争では新政府軍は苦戦。長岡藩は近代的な軍隊をもっていたからです。圧倒的な兵力でなんとか勝利した新政府軍でしたが、越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)の戦いで吉二郎は負傷してしまいます。

1868年(慶応4年)8月14日。吉二郎は戦いの傷が回復することなく死亡してしまいました。

戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)11月11日。明治政府は吉二郎の功績を讃え、遺族に扶持米70俵を30年間支給する決定をしました。

西郷隆盛は「自分が国家のため、ご奉公ができたのは吉二郎が自分にかわって兄としての責任をはたしたおかげ」「自分は年齢が上だったから兄というだけで、実際の兄は吉二郎だ」とまで語っています。

隆盛の功績の影には、吉二郎の献身的な働きがあったのでしょう。

 

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