真田信政・信之と小松姫の息子

真田家

真田信之と小松姫との間には二人の息子がいます。
信政は信之の次男、信重は三男です。

大坂の陣では信政は長男・信吉とともに出陣しました。

その後、支藩の藩主を務め父・信之隠居後は松代藩主になります。

子供が多い割りに、後継者に恵まれないという不遇の晩年でした。

真田信繁の甥ですが、あまり関わりがありません。

 

 

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真田信政(さなだ のぶまさ)

 

慶長2年(1597年)生まれ。

関ヶ原の合戦のときには徳川家へ人質として預けられました。矢沢三十郎が付き従ったといいます。このとき、忠義の褒美として「吉光の短刀」が与えられました。

大坂の陣では、病の父に代わり兄・信直とともに出陣しました。
冬の陣では、兄と共に先頭にたって戦いました。

休戦の間も大坂に留まりました。
その間、真田家の陣には叔父・真田信繁がたずねて来ました。
信繁が親しく接したのは主に信吉の方で、信政とはあまり話さなかったそうです。
嫡男は信吉なので、真田家の跡取りとして自分の知ってることはできるだけ伝えたいという信繁の想いがあったのかもしれませんが。
信政の母が徳川重臣・本多忠勝の娘というのも、影響していたかもしれません。

夏の陣では、毛利勝永ら捨て身で突撃してくる豊臣勢に対して苦戦。
敗走します。

兄と共に無事・帰りましたが。
母・小松姫からは
「二人もいるのだから、討死すれば忠義を示せたのに」と言われたといいます。

 

藩主となる

 

元和8年(1622年)、父・信之が上田から松代へ異動が命じられました。
そのとき、松代藩の一部を与えられ埴科藩1万石の藩主となりました。

寛永12年(1635年)、沼田藩主・信吉が亡くなりました。跡継ぎの熊之助は4歳のため。熊之助の後見人となります。

寛永15年(1638年)、熊之助が7歳で亡くなります。
寛永16年(1639年)、信政が沼田藩の藩主になります。
このとき、沼田藩3万石のうち、5000石を甥の信直に与えました。
埴科藩は弟・信重が継ぎました。

沼田藩時代には、新田開発などを進め沼田の発展に尽くしました。

明暦8年(1667年)、父・信之が隠居。松代藩10万石の藩主となります。
沼田藩は信直が引き継ぎました。

父・信之が隠居したときには、信政も60歳。
信政はなかなか家督が相続されないことが不満でした。
沼田藩を継いだ兄・信吉の息子達に松代藩を継がせようとしているのではないか、と疑ったこともあったようです。
本当は信之も隠居したかったのです。
将軍家も秀忠の次の世代になって、戦国時代を生き抜いた信之は尊敬する人物になっていました。幕府に隠居願いを出しても却下されていたのです。

 

 

なかなか決まらない後継者

 

正室は稲垣重綱の娘でしたが子はありません。離縁したとも死別したとも言われます。
側室との間に七男、六女の子供に恵まれました。

子供は多かったのですが、問題が多く後継者には恵まれませんでした。
側室には小野国子らがいます。小野国子は、父・信之が親しかった小野お通の娘です。しかし、遠慮して松代に来ることを拒みました。信政が京に滞在中に長男・信就ができました。信就は分家となり旗本となります。

次男・信守は三男・信武を沼田城内で刺したあと自決。刺された信武も亡くなります。
四男・信福も若くして他界。
身内に不幸が続きました。
後継者に決まったのは60歳を超えて生まれた信道でした。
遺言で信道を後継者に指名した後、
万治元年(1658年)、亡くなります。享年62
沼田藩2代目藩主となったものの、実質2年の沼田藩主生活でした。

 

しかし信政亡き後、沼田藩の藩主の座を巡って争いが起きます。
その話は別の機会に。

 

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大河ドラマ真田丸での配役は大山真志さん

大河ドラマ真田丸では、当初は高畑裕太が予定されていました。しかし事件を起こして白紙に。代役として決まったのが大山真志さんです。

 

舞台を中心に活動してる俳優さんです。ミュージカル・テニスの王子様、弱虫ペダルなんかに出てますね。メジャーデビューといっていいかもしれませんね。

 

 

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父:真田信之

母:小松姫(稲)

兄:真田信政

 

 

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