真田信繁 伝説となった大坂の陣

真田家

高野山九度山村で蟄居している真田信繁のもとに大坂からの使者が来ました。
豊臣秀頼の使者だといいます。徳川家康と戦う決心をした豊臣秀頼のため、参戦を求めているのでした。

九度山で朽ち果てると思っていた信繁にとっては、絶好のチャンスだったでしょう。
信繁は大坂城に入り徳川家康と戦うことを決意します。

後に真田幸村伝説となる真田信繁の戦いが始まるのでした。

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大坂の陣の真田信繁

信繁のもとに来た使者は当面の報酬として金200枚、銀30貫文を支払う。大坂城では兵5000を預けると約束しました。

信繁は大坂城へ行くことに決めました。しかし問題はどうやって九度山を抜けるかです。
浅野家の監視が続いていました。村人を招いて日頃のお礼として大宴会を行います。村人たちが飲んで騒いで酔っぱらったあいだに、馬や車に妻子と荷物を積み込み村を脱出したといわれます。

徳川家康が信繁の脱出を知ったのは10月14日だといいます。

九度山を出たとき、信繁に従う兵は3人の家臣と久土山村の地侍でした。しかし大坂城に入るころには200人近い数になっていたといいます。大坂に向かうと知って途中で合流した浪人がいたのでした。

信繁の家族は大坂城内の屋敷に住むことになっといいます。信繁は上田にいる旧臣にも呼びかけました。堀田作兵衛ら40~50人の兵が集まりました。

信繁は長宗我部盛親、毛利勝永とともに大名格の三人衆として待遇されました。後に5人衆と呼ばれます。

付きまとう不信感

しかし大坂城に入った信繁はある噂話を聞きます。信繁が徳川に密通してるのではないか、裏切るのではないかというのです。信繁の兄・信之は徳川家康に味方しています。上田合戦では徳川秀忠と戦いましたが、「あれは父・昌幸がいたから。今はいつ寝返るかわからない」というのです。

特に大野治長らの不信感は最後までこの不信感を払しょくすることができませんでした。武将たちが信繁に持つ不信感は信繁の発言力を低下させることにもなり、思うような采配ができない結果となります。

真田丸に入る

信繁は玉造口の砦を任されました。すでに後藤又兵衛が取り掛かっているようでしたが、信繁が引き継ぐことになりました。ゼロから信繁が作ったのではないようです。

砦が完成したのは11月15日ごろだといわれます。この砦は真田丸と呼ばれるようになりました。

慶長16年10月中旬(1614年)。大坂城で作戦をどうするかという軍議が行われたといいます。信繁は徳川方が来る前に瀬田・宇治を占領し迎え撃つという作戦を立てます。他の浪人集も賛成しました。このとき披露した作戦は父・昌幸から受け継いだものだといわれています。

しかし、大野治長らは籠城戦を主張。結局籠城戦を行うことになりました。

実際にこの話し合いが行われたかは不明ですが、現実には10月16日には諸大名が大坂に集まりつつありました。実行は難しかったと思われます。

大坂冬の陣

11月19日。木津川口で戦いが始まりました。
以後各地で戦闘が行われますが、各地で敗退。
11月30日。豊臣勢は大坂城に撤退します。

真田丸の戦い

12月2日より、幕府軍は大坂城に攻撃を開始しました。信繁は5000の兵と共に真田丸で迎え撃ちました。

信繁は真田丸の前方にある篠山という丘に兵を進め塹壕を掘り進んでくる前田隊に攻撃をしかけ、塹壕つくりを妨害しました。

12月3日。大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通してることが分かりました。

12月4日。篠山に配置した真田隊に前田隊が攻撃を仕掛けてきました。塹壕つくりを邪魔された前田隊は、塹壕つくりを妨害させないために篠山を占領しようとしたのです。真田隊はすぐに真田丸に引き返しました。真田隊は空になった篠山を占領した前田隊を挑発。挑発に乗った前田隊が突撃してくるところに銃撃を浴びせます。

真田丸の前には幅40m近い堀があり、その堀に大勢の幕府軍が落ちました。落ちた敵兵に対し銃撃を浴びせました。

このとき、真田丸内の火薬庫が事故がおこり爆発しました。これを内通した南条元忠が決起したと勘違いした井伊、松平隊も大坂城に対して攻撃を開始。八丁目口、谷町口でも戦闘が始まりました。幕府軍はここでも被害を出しました。死傷者の数は一説には1万5千とも言います。

この戦いの後、家康は軽率な突撃をしないよう命令し、盾や竹束による防御を徹底させます。この後、幕府軍は大砲、石火矢による攻撃が中心となり。初戦のような戦果は挙げられなくなりました。

真田丸からも銃撃を試みますが大砲陣地を破壊することはできず、膠着状態になります。

しかし、次第に大型の大砲をそろえる幕府方が優勢となり豊臣方は和議に応じます。

厭世感漂う和平のひと時

和議の条件には堀の埋め立て、二の丸、三の丸の破壊がありました。真田丸も破壊されてしまいました。

戦闘は終わりましたが、信繁は戦はまた始まると考えていました。信濃に残る姉に対して、「自分のことはいないものだと思ってほしい」という内容の手紙を出しています。

慶長20年2月。堀の埋め立てが進む中。信繁の元に叔父の真田信尹が訪ねてきました。信尹をよこしたのは本田正純で、幕府側への寝返りを求めるためでした。「信濃で十万石を与える」という条件でしたが、信繁は断ります。信尹は本田正純に報告した後、再び信繁のもとを訪れました。「信濃一国を与える」という条件を出してきました。これには信繁は怒って断りました。以後、信尹には会いませんでした。

和議の間、信繁は真田家の陣を何度も尋ねました。兄・信之の代わりに甥の信吉、信政が大坂に来ていました。姉の夫・小山田信繁は重臣となって甥たちを支えていました。信繁は彼らと会って「兄に会ってみたい」と話したり甥たちに昔のことを話したようです。

信繁は秀頼には頼りにされていましたが、大野治長ら豊臣の家臣にはまだ疑われていました。さらに、城内の武将は抗戦派と和平派に意見が対立していました。信繁はどちらにも属さない中立の立場でしたが、城内での居心地は良くなかったようです。

そのことが、真田の陣をたびたび訪れる結果になったのかもしれません。

3月、堀の掘り返しが始まり、戦の準備が勧められました。

4月9日。幕府との交渉を行っていた大野治長が大坂城内で襲われます。交渉は決裂。
4月12日。浪人達に金銀が配られ、武具の準備、戦の備えが勧められます。

豊臣方の兵力は7万8千に減っていました。

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大坂夏の陣

道明寺の戦い

4月30日。後藤又兵衛の提案で大和路から大坂城に向かう幕府軍を迎え撃つことが決定。信繁も又兵衛の案に賛同します。

5月1日。信繁らは出陣します。先に後藤又兵衛の隊が出陣し、真田信繁と毛利勝永が続きました。

5月5日。平野で野営したあと、翌日に道明寺付近で合流して幕府軍を迎え撃つことになりました。

5月6日。後藤隊が出発したのは真夜中でした。真田隊も続きますが、霧もあり後藤隊に追いつくことができません。

信繁が追いついたとき、後藤隊は壊滅。又兵衛は討ち死にしていました。

誉田の戦い

先発した後藤隊らの敗残兵を加えた真田隊は後藤隊を壊滅させた伊達隊と戦います。伊達隊を率いるのは片倉景綱でした。しかし、後藤隊と戦ったばかりの伊達隊は銃を手入れする暇がありません。撃ちまくった銃身は焼けており、使用限界に来ました。

信繁は伊達隊の銃撃がやんだところを突撃。伊達隊は真田隊の突撃を食い止めることができず、道明寺まで後退します。信繁はそれ以上追撃しませんでした。

別の幕府軍が豊臣軍を打ち破り木村重成が戦死したとの報告も伝わりました。包囲される可能性もあります。ここで討ち死にしては家康の首をとることはできなくなります。信繁と毛利勝永は撤退することにしました。信繁はしんがりを務めながら大坂城に撤退しました。

天王寺の戦い

5月7日。信繁は3500の兵を率いて茶臼山に布陣しました。そこは夏の陣で徳川家康が本陣にした場所でした。小高い茶臼山からは敵軍の位置取りが確認できたことでしょう。

信繁の隊には息子の幸昌(大助)も加わっています。このとき真田信倍といわれる者も一緒だったといいます。

この戦いでは、敵を四天王寺付近に引き付けて、迫る敵部隊をその都度たたく。部隊が伸びきって、本陣が手薄になったところを別動隊が本陣の後ろに回り込む。その後、前後から挟み撃ちするという手筈だったといわれます。また、信繁は秀頼の出陣を求めていたとも言います。

戦いは、毛利隊先発隊が幕府軍を攻撃したことで始まりました。大部隊同士がぶつかり合う戦いが始まります。毛利隊が本田隊らを撃退している間、真田隊も松平忠直の隊とぶつかります。毛利隊と戦おうと移動した浅野隊を見た松平隊は浅野が寝返ったと勘違いして混乱(信繁が嘘の情報を流したとの説もあり)。その間に真田隊は家康の本陣を目指し突撃します。

毛利隊や大野治房隊にてこずる幕府軍には目もくれず、信繁はひたすら家康の本陣をめざして突撃を続けました。

このとき信繁にとって幸いだったのは、伊達政宗の隊と松平忠輝の隊が積極的には戦ってなかったことでした。(後に忠輝は改易)

信繁の隊は何度も突撃を繰り返しました。家康本陣は大混乱に陥り、馬印が倒れ、家康も切腹を覚悟したといいます。

しかし立て直した松平忠直隊との戦いで力尽き部隊は壊滅状態になります。

信繁は茶臼山付近まで押し戻され、安居神社で休んでいるところを討ち取られたといわれます。享年49。(一説には46ともいいます)

コメント

  1. 加藤結奈 より:

    またまた訂正コメント失礼します。大坂冬の陣が二つあります。上から二番目の大坂の陣は、冬ではなく、夏です。

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