お田(なほ)・真田信繁の娘は大名の母

真田信繁(幸村)の娘・お田。

信繁が九度山で過ごしていたときに生まれました。

敗軍の将の娘として逃げ隠れする生活から捕らわれの身へ、
やがて大名家へ嫁ぎ、息子は大名となります。
名君となる息子を育てた母としても知られます。

お田とはどんな女性だったのでしょうか。

お田(なほ)の生涯

お田の方は慶長9年(1604年)、九度山で生まれました。
お田姫、なほ、なおとも言います。
父は真田信繁、母は隆清院
隆清院は豊臣秀次の娘です。

慶長19年(1614年)、父・真田信繁は大坂城に入ります。
なほも同行しました。
信繁は大坂城下に屋敷を与えられそこで妻子が暮らしたと思われます。

大坂冬の陣の後、信繁は妻子に大坂城から出ることを勧めます。
なほは母・隆清院に連れられ共に京へ向かいました。
京の嵯峨で瑞龍院に身を寄せました。
瑞龍院では秀次の母・ともが日秀と名を変えて尼をしていました。
なほにとっては曾祖母にあたります。

大坂城落城後、徳川方が大坂方の残党を探しているという噂が流れました。
大坂方で生き残った将兵が京へ逃れようとしていました。それを徳川方が探していたのです。

身の危険を感じた二人は瑞龍院を出ます。
京の町を転々をしていましたが、なほは母とはぐれてしまいます。
なほは徳川方に捕まってしまいました。
(母と共に捕まったという説もあります。)
このとき、叔父・真田信之が軽い処分ですむように幕府に願い出ます。

なほは江戸城の大奥で働くことになりました。
幽閉のようなものですが処分としては軽いといえます。
でも、このとき身につけた礼儀作法や薙刀があとで役に立つことになります。

3年間大奥で勤めたあと、開放されます。
なほは大奥勤めの経験があるということで、二条城あるいは四条のある屋敷で働くことになりました。当時の女性にとって大奥勤めはトップクラスのキャリアウーマンなのです。

京では母・隆清院と再開します。
弟・三次左馬之助の存在も知ったことでしょう。
三好は祖父・豊臣秀次が秀吉の後継者になる前に名のっていた姓です。

大名・佐竹宣家の側室になる

その後、上洛した出羽国久保田藩主・佐竹義宣と弟・宣家が、お田の働いている屋敷に宿泊しました。
なほは礼儀作法の心得があったため、大名である佐竹義宣の給仕係を任されます。
あるとき、義宣は下女に薙刀の指南をしているお田をみかけました。
そのふるまいにただの給仕係ではないと思った義宣は、なほに出自を聞きます。
なほは最初は自分の身の上を話すのを嫌がっていましたが、仕方なく真田信繁の娘だとうち明けました。

それを聞いた義宣はなほに同情するとともに、日ごろ弟・宣家が妻との関係がうまくいってないことを気にしていたので、宣家に側室にしてはどうかと勧めます。

なほは20歳のとき佐竹宣家の側室となります。
お田の方と呼ばれることもあったようです。

宣家との間には嫡男・庄次郎(重隆)が生まれました。

お田は息子・庄次郎の教育には厳しかったといいます。
礼儀作法、武芸を自ら教えました。

寛永5年(1628年)、庄次郎が岩城家を継いで亀田藩主となりました。岩城重隆と名を改めます。

宣家も名を岩城宣隆と改めました。隆の字を名前にいれることは岩城氏のしきたりだったからです。

でも重隆は幼かったので父の宣隆が代りに藩政を行うことになりました。
実質的な藩主になったのです。(岩城宣隆を藩主とすることもあります)
お田は宣隆の正室となります。

寛永6年(1629年)お田は真田家の人々を供養するために顕性山妙慶寺を建てました。

寛永10年(1633年)、当時6歳の岩城重隆が将軍に会いに江戸に行ったときは江戸まで同行しました。

また弟の左馬之助を亀田城下に呼び寄せます。
左馬之助は元服して真田 幸信と名乗り、岩城家に仕えました。

このころ娘が生まれます。

寛永11年(1634年)母・隆清院がなくなったことを知り、葬儀には使者を送ります。

寛永12年(1635年)、重隆の参勤交代に同行して江戸にいたとき、病になって亀田藩邸で亡くなりました。享年32。

娘(寂寥院)は幼くして母をなくした悲しみから出家したということです。

お田と母・隆清院、娘・寂寥院、弟・幸信の墓は妙慶寺にあります。

成長した岩城重隆は月峰公と呼ばれるようになり。
城下町の整備や新田開発を行い、地域の発展を進めた名君とされます。

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