真田 大助 幸昌・大阪城で果てた真田信繁の息子

真田信繁の息子で唯一、最後まで信繁と行動を共にした大助。

正式な名は、真田 幸昌。大助は通称です。大坂の陣では若くして亡くなりました。16歳とも13歳ともいわれます。

講談では真田幸村の息子・真田大助として強烈な印象を残し様々な逸話を残してます。
真田大助とはどんな武将だったのでしょうか。

真田大助幸昌とは

真田大助は慶長6年7月24日(1601年)、紀伊国九度山村で生まれました。
父は真田信繁、母は竹林院です。信繁の嫡男です。

通称は大助。元服して幸昌と名乗りました。祖父・昌幸の名をいただいたものですが、順番が逆になってます。

関ケ原の合戦のあと信繁が流罪になり、高野山で生活しているときに生まれた息子です。

慶長19年(1614年)、父・信繁とともに久土山を脱出して大阪城に入りました。

大坂冬の陣では、真田丸にて戦いました。

大坂夏の陣では、信繁の部隊に所属。道明寺の戦いに参戦、武将の首をとるなと活躍しましたが、太ももを負傷します。

信繁から「秀頼公をお守りするように」あるいは「秀頼公の自害を見届けたあと、自身も武士らしく自害せよ」と言われて大阪城に引き返します。このとき、秀頼が和睦を考えているから止めるようにと言い含められたといいます。幸昌としては最後まで父とともに戦いたかったのかもしれませんが命令には逆らえません。

大阪城落城のときには、幸昌が若いこと。豊臣家に恩があるわけではないので共に死ぬ必要はないと、速水守久らから説得されましたが聞き入れませんでした。

大坂城にもどった幸昌はその後、大坂城に退却してきた兵たちから父・信繁が討ち死にしたことを聞き出したようです。このとき、涙を流して父の死を悲しんだといいます。母からもらった数珠を握りしめ死を覚悟したようです。

慶長20年5月8日(1615年)、幸昌は秀頼の自害を見届けると、大阪城の山王曲輪にて自害しました。享年16。13という説もあります。

最後については諸説あります。「我は真田左衛門佐信繁の倅なり」と叫んで加藤弥平太の介錯で自害したという説。加藤弥平太と刺し違えたという説などがあります。

真田大助の死は人々に強烈な印象を残したようです。九州や東北に逃れたという逸話が作られました。島原の乱では大助が関わったという話まで作られています。

母:竹林院(お春)・真田信繁の正室とは