関口氏経は井伊谷徳政令をめぐって次郎法師(井伊直虎)と対立した?

関口家は今川家の分家筋にあたる名門の家柄。今川義元・氏真の時代には今川家を支える重臣として働きました。

関口氏経は氏真に仕えました。井伊谷をめぐる徳政令では重要な働きをします。井伊直虎を井伊谷の領主から解任し、井伊谷を今川家の直轄地にすることに成功。今川家の直轄領を増やす功績をあげました。

今川家を支えた関口氏経について紹介します。

関口氏経(せきぐち うじつね)とは

名前:関口氏経(せきぐち うじつね)
官名通称:越中守

今川義元の時代、関口家の当主は氏純でした。娘は松平元康(徳川家康)の正室となります。しかし松平元康の裏切りで自害に追い込まれました。

関口氏純の死後、関口氏経の名前の入った書状が見られるようになります。

氏経は関口家を相続しましたが、氏純の実子ではないようです。今川氏真の命令で関口家の家督は氏経が継いだのでしょう。今川氏真は関口家に不信感を持っていたのかもしれません。より氏真に忠実な氏経に関口家を相続させたのかもしれません。

永禄9年。今川氏真は領内に徳政令を出しました。しかし井伊谷では次郎法師が抵抗していました。井伊谷については今川家臣の勾坂直興が小野但馬守や祝田禰宜と相談して徳政令を実行するように働きかけてきたようです。しかし次郎法師がなかなか実行しません。

とうとう勾坂直興は氏経に訴えてきました。氏経は勾坂直興と小野但馬守の話を聞き、決定を下します。

永禄11年8月。氏経は次郎法師に徳政令を出すように書状を送ります。書状の後半部分はこのように結ばれています。「いまもってその沙汰をしないのは甚だあきれ果てたことだ。銭主方がいかような訴訟を申そうと許してはならない」

ただの書状ではありません。命令に近い威圧感です。受け取った領主なら、今川家の催促を断るとどうなるのか敏感に感じ取ったことでしょう。

永禄11年11月。ついに井伊谷で徳政令が事項されることになりました。徳政令の実行を命令する書状には関口氏経と次郎直虎の署名があります。この書状から井伊谷の地頭をしていた次郎法師が”直虎”という名前だったと言われるようになりました。

徳政令を実行させただけではありません。次郎法師を地頭としての職務を全うしないという理由で地頭を解任しました。小野但馬守を井伊谷の代官に任命しました。こうして井伊谷を今川の直轄地化することに成功します。

しかし12月。武田信玄と徳川家康が今川領に攻めてきました。
永禄12年5月。今川氏真は徳川家康に降伏。これで大名家としての今川家は途絶えます。その後、関口氏経がどうなったのか消息は分かりません。

スポンサーリンク

井伊直虎は関口氏経の息子だった?

大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送を控えた2016年12月。突如として「井伊直虎は男だった」とする発表がありました。井伊美術館の井伊達夫館長がおこないました。新野左馬之助の子孫が書いたとされる文書が見つかったというのです。

関口氏経は新野家の出身?

その文書には「関口氏経の息子を井伊次郎とし、井伊谷の領地を与えた」とあります。また、関口氏経は新野左馬之助の兄弟。井伊次郎は関口氏経の甥と書いてあります。

つまり、関口氏経は新野家の出身ということです。新野左馬之助の妹は井伊直盛の妻でした。新野左馬之助、関口氏経、井伊直盛の妻は兄弟だったことになりますね。

今川氏真は関口氏縁を切腹させた後、氏縁の息子らには後を継がせずに新野家から氏経を迎えて関口家を継がせたのかもしれません。松平元康が裏切ったことで関口家に対して不信感が出たと考えられます。新野左馬之助は井伊谷に移り住んで井伊家に同情的になっていました。しかしこの時期になっても新野の本家は今川氏真の信頼が厚かったことになります。

関口氏経の息子は形だけの領主?

氏真は関口氏経の息子に井伊谷を与えたことになっています。徳政令に抵抗する次郎法師を追放した後、今川家の言いなりになる者に井伊谷を治めさせたのかもしれません。

井伊次郎というのは個人名ですが、井伊谷の領主という意味でも使われます。関口氏経の息子を井伊谷の領主にした。という意味なのでしょう。新野家の者に関口家を名乗らせたのなら(関口家は新野家より格上です)、関口家の者に井伊家を名乗らせるのはたやすかったかもしれません。それに新野家の縁者が井伊谷に馴染んでいたのも都合よかったかもしれません。新野家の血をひくものを井伊谷の領主にすれば家臣や領民の抵抗が少ないと考えたのかもしれません。

しかしこの文書には関口氏経の息子が直虎だとは書いてません。井伊次郎とあるだけです。井伊次郎は井伊谷の領主の別名ですから、これだけでは直虎=関口氏経の息子=男の証明としては不十分です。次郎法師を解任したあとで領主にしだだけかもしれません。

仮に関口氏経の息子が、徳政令を出す文書に”直虎”と署名した人物だったとしたらどんな可能性が考えられるのでしょうか。徳政令を出した書状には実の父である関口氏経も署名しています。親子で署名したことになります。奇妙な関係ですね。

たしかに直虎が氏経の息子であれば氏経の思惑通りに運びやすいかもしれません。領主といっても形だけだったのでしょう。もしかすると氏経の息子は署名しただけで井伊谷には住んでない可能性もあります。次郎法師追放後は小野但馬守が代官となって井伊谷を経営していたのでしょうね。