千姫・豊臣家に嫁いだ徳川将軍の娘

千姫は豊臣秀頼の正室。
徳川と豊臣の懸け橋となることを期待されながらも、豊臣家の滅亡に立ち会う悲劇の女性として知られています。

その後、桑名の本田忠刻と再婚。後に姫路に移りますが二人目の夫とも死別。江戸に移ります。

歴史上は悲劇的な印象の強い千姫。しかし現代では意外な人気もあります。

千姫とはいったいどんな人だったのでしょうか。

 千姫のおいたち

生年: 慶長2年4月11日(1597年)
没年: 寛文6年2月6日(1666年)
生誕地:山城国伏見城(京都府京都市伏見区)
別名:天樹院(てんじゅいん)
父: 徳川秀忠。江戸幕府2代将軍。 
母:お江。浅井長政の三女。姉は淀殿、お初

千姫は徳川家康の後継者・秀忠とお江の長女として、伏見城内の徳川屋敷で生まれました。
慶長8年(1603年)。7歳で豊臣秀頼(11歳)の正室となり大阪城に入ります。二人が結婚することは生前の豊臣秀吉と徳川家康の約束していました。淀殿が約束の実行を強く望んでいたためといわれますが。家康にしてもこの時点では豊臣家を滅ぼすつもりはなかったのでしょう。

幼い二人は一緒になったわけですが、ままごとのような結婚生活だっといわれます。二人の仲は仲睦まじかったといいます。

千姫は事実上、豊臣家に人質としておくられたのですが、淀殿との仲もよかったといいます。淀殿からみれば千姫は姉の娘です。織田・浅井の血が流れているのです。祖母お市の血を受け継ぎ美しかったといわれます。

女性の成人の儀式・鬢削では秀頼自身が行ったのを侍女が見ています。

千姫と秀頼との間には子供はできませんでした。

慶長20年5月7日(1615年)。19歳のとき。大坂夏の陣では千姫のいた大阪城は幕府軍に攻撃されました。落城寸前の大阪城で千姫は秀頼とともに自刃する覚悟でした。しかし大野治長から秀頼親子の助命嘆願のための使者になってほしいと依頼されます。千姫はその願いを聞き入れ、豊臣家家臣・堀内氏久に護衛され侍女・松坂の局と共に大阪城を脱出します。

堀内氏久は親交のあった坂崎直盛の陣へ行き千姫を託します。
千姫は徳川家康の陣におくられました。そこで秀頼と淀殿の命を助けるよう訴えますが、家康は断ります。つづいて父・秀頼の陣に行きますが、千姫の願いを断ったばかりか「なぜ秀頼とともに自害しなかったのか」と言われたという話もあります。

5月8日。大阪城は炎に包まれ、秀頼と淀殿は自害しました。

その後、大坂城を脱出していた秀頼の子供がつかまります。千姫は自分の子供ではありませんでしたが、叔母のお初とともに子供たちの助命を訴えます。嫡男・国松は処刑されましたが。娘の奈阿姫(7歳)は出家する条件で本多忠刻助けられました。千姫は奈阿姫を養女したのち鎌倉の東慶寺に入れました。奈阿姫は天秀尼と名乗ります。天秀尼はのちに東慶寺の住職になります。

家康は坂崎直盛にたいして、未亡人となった千姫の結婚相手を探すように言います。直盛は千姫と公家との縁組をすすめていきました。

元和2年(1616年)。家康は千姫と桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻との縁談を決めてしまいます。(千姫が秀頼をなくしてすぐの公家との再婚を嫌がったためとも言われます)

本田忠刻は徳川四天王といわれた本田忠勝の孫。忠勝は家康にとって最も信頼できる重臣でつねに身の回りにおいて護衛を任せていました。家康は大事な千姫を嫁がせるにふさわしい家だと考えたのでしょう。

千姫事件

面目をつぶされた坂崎直盛は千姫の嫁入り行列を襲って拉致する計画を立てました。しかしその計画は事前に漏れてしまいます。直盛の屋敷は幕府軍に囲まれました。ここで直盛りが切腹すれば板崎家は残すと説得しますが直盛は拒否(幕府から話を聞いた家臣が拒否したともいいます)。

そこで直盛と親交のあった柳生宗矩が説得にあたることになりました。直盛は自分が腹を切れば家は残ると信じて切腹します。しかし幕府は板崎家をとりつぶしてしまいました。

姫路城に入り播磨姫と呼ばれる

元和2年9月(1616年)。千姫は桑名城に入ります。幕府から10万両の化粧料を与えられたといいます。

元和3年(1617年)。本田家が播磨国姫路に移ります。姫路城に入った千姫は播磨姫と呼ばれるようになりました。姫路城内には千姫のために武蔵野御殿とよばれる屋敷が立てられました。

夫・本田忠刻は美男でした。そのため美男の忠刻に千姫が一目ぼれしたためといわれることがあります。でも千姫の意思に関係なく、二人の結婚は家康が決めたことでした。千姫と忠刻は家康が勝手に決めた結婚でしたが、夫婦の仲は良かったといわれます。

本田忠刻の母・熊姫は父が徳川家康の嫡男・信康、母が織田信長の娘でした。徳川と織田の血を受け継いでるという意味では千姫と似た境遇にあります。

元和4年(1618年)。長女・勝姫が生まれます。
元和5年(1619年)。嫡男・幸千代が生まれます。

元和9年(1623年)。天神を信仰していた千姫は、姫路城から見える男山に本田家繁栄のため男山天満宮を建て、嫁入り道具として持参した6枚の羽子板を奉納しました。千姫は姫路城西の丸から男山天満宮に対して毎朝夕遥拝していました。

秀頼を亡くして以来、久しぶりに訪れた幸せな日々でした。
しかし、幸千代が3歳のとき病でなくなりました。
その後は何度も流産を繰り返したため、秀頼の怨念ではないかと噂がたちます。
寛永3年5月7日(1626年)。夫・忠刻が結核のため亡くなります。
寛永3年9月15日〈1626年)。母・お江が亡くなります。

不幸の相次いだ千姫は出家して天樹院と名乗ります。本田家を出ることになりました。千姫が姫路を出る時、多くの家臣や領民が別れを惜しんだといいます。

江戸に移ってからの天樹院

娘・勝姫とともに江戸城に入ります。勝姫とともに竹橋御殿で暮らしました。

寛永5年(1628年)。勝姫が父・秀忠の養女となって池田光政のもとへ嫁ぎます。
寛永9年(1632年)。父・秀忠が亡くなります。
寛永16年(1639年)。光政と勝姫のあいだに嫡男・池田綱政(千姫の孫)が生まれます。

正保元年(1644年)。家光の厄年を避けるため、家光の側室・夏(順性院)が引っ越してきました。天樹院と夏は一緒に暮らします。引っ越してきたあと、夏は出産。家光の三男・綱重が生まれます。

天樹院と弟の徳川家光は仲がよかったようです。また天樹院は大奥に対して影響力を持つようになったといわれます。

寛文5年(1655年)。妹の勝姫(娘の勝姫とは別人・天崇院)に依頼されて勝姫の娘・国姫の婚姻が遅れていたので早めるように幕府に働きかけました。

明暦3年(1657年)。明暦の大火で邸が焼失しました。叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時避難しました。

寛文6年(1666年)2月6日。江戸で死去。享年76。

悲劇の姫様の印象の強い千姫ですが、姫路では昔から親しまれていました。さらに現代では意外な人気が出ています。二度の結婚がいずれも相手に恵まれたこと(二人とも美形の御曹司)、夫婦仲がよかったことが理由だと思われます。千姫の建てた兵庫県姫路市の男山天満宮は千姫八幡宮とも呼ばれ、縁結びの神様として信仰を集めているのです。