島津斉興(しまづ なりおき)斉彬との確執はどうして起きた?

島津家家紋

島津斉興は島津家第27代当主で薩摩藩代10代藩主。

祖父・重豪のせいで、藩主になるのが遅かった斉興。重豪の影響を強く受けている息子・斉彬とも確執があり。なかなか藩主の座を譲ろうとしませんでした。

お由羅騒動と言われるお家騒動も起き、あまりいい印象を持たれていません。その一方で長年赤字続きだった薩摩藩の財政を立て直しました。強引な方法もとったため一部では評判の悪い改革でしたが、誰も変えることのできなかった薩摩藩の財政を立て直したのは確かです。

島津斉興とはどんな人だったのでしょうか。

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 島津斉興(しまづ なりおき)とは

名 前:島津斉興(しまづ なりおき)
第10代薩摩藩藩主
生 年:寛政3年11月6日(1791年12月1日)
没 年:安政6年9月12日(1859年10月7日)
父:島津斉宣
母:鈴木勝直の娘
正室:正室:弥姫
側室:お由羅の方、関根常忠の娘、西成駿の娘
子: 斉彬、池田斉敏、順姫、候姫、久光

 

第9代薩摩藩藩主・島津斉宣の長男として江戸の薩摩藩邸で生まれました。

母は浪人・鈴木勝直の娘の娘だったので、佐竹義和の養女となって斉宣の側室になりました。

文化6年(1809年)6月。父・斉宣がお家騒動(近思録崩れ、文化朋党事件ともいいます)の責任をとって祖父・重豪によって強制的に引退させられました。

島津斉興は18歳で10代藩主となりました。ところが、藩の実権は祖父・重豪が握っていました。重豪は斉彬を溺愛していました。

斉興が立派な大人になっても重豪は実権を手放しません。

天保4年(1833年)。重豪が89歳で死去。斉興は42歳。ようやく斉興の時代が来ました。

斉興は薩摩藩の財政改革を始めました。薩摩藩は江戸初期から赤字続きでした。薩摩藩は江戸幕府から警戒されていたため費用のかかる工事を押し付けられていました。歴代の藩主は財政には無頓着で浪費していました。それでも歴代の藩主は根本的な改革を行わず、赤字は膨らみ続けていました。薩摩に暗君なしといわれますが、経済的な感覚については斉興までの藩主で名君といえる人はいなかったといえます。

財政改革

さすがに薩摩の財政に危機感をもった斉興は重豪のころからの重臣・調所広郷を起用して財政改革に取り組みます。

借金を250年で返済する。琉球を使って清と密貿易する。砂糖の販売など。大胆というか、かなり強引な方法もとりました。ともかく薩摩藩の財政は回復。赤字をなくして黒字になりました。そうまでしなければ薩摩藩の財政は回復できなかったのです。

嘉永元年(1848年)。幕府から薩摩藩が密貿易しているのではないかと疑いをかけられます。責任者の調所広郷が急死したため真相は不明のまま有耶無耶になりました。

斉彬を支持する一派が密告したといわれます。調所広郷は斉興が責任を問われないように自ら命を絶ったのでした。

お由羅騒動

42歳と遅くに藩主になった斉興は、なかなか実権を手放しません。嫡男の斉彬も40歳を過ぎても家督は相続できないままでした。

斉興も祖父・重豪と同じように若い藩主に任せずに年老いても自分で実権を握り続けたのです。

しかも、嫡男の斉興は重豪の溺愛をうけたために影響を強く受けていました。重豪は蘭癖と呼ばれ、西洋の物にはまったせいで浪費していたのです。斉彬も西洋の物に興味をもっていました。斉興や調所広郷たち重臣も、斉彬が浪費するのではないかと心配したのです。側室の由羅が産んだ久光を後継者にしようとも考えました。

しかし斉彬が後継者だと幕府にも知られているので、後継者を簡単に変えることはできません。斉興は藩主を交代しないまま月日が流れました。

年老いても引退しない斉興に対して、斉彬を支持する若い藩士たちは不満をもっていました。若い藩士たちがお由羅と久光を暗殺する計画を建てたことが発覚。斉興はすぐに処分しました。

この事件をお由羅騒動(高崎崩れ)といいます。

しかし、この事件は幕府にも知られてしまいました。老中・阿部正弘が薩摩藩に介入。将軍・徳川家慶から斉興に茶器が贈られました。茶器を送るというのは引退勧告と同じ意味があるとされました。ここまでされると斉興は引退するしかなくなります。

引退後、従三位が与えられました。一説には従三位にこだわっていたため藩主の座にこだわっていたともいわれます。

嘉永4年(1851年)。斉興は引退して斉彬に藩主の座を譲りました。

安政5年(1858年)7月16日。息子の斉彬が病死。久光の長男・忠徳が藩主になりましたが。若いという理由で、斉興がふたたび藩の実権を握りました。

西郷隆盛ら斉彬派の重臣たちを追放し、斉彬時代に進めていた政策も廃止しました。

安政6年(1859年)9月12日に死去。享年69。

遅くに藩主になった斉興は自らも藩主の座を譲ることを拒みました。財政改革を行って藩の財政を立て直した功績もありますが、晩年は斉彬の行っていた政治を否定するなど混乱を起こしました。

 

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