菅沼忠久・家康に寝返るきっかけを作った井伊谷三人衆の一人

菅沼忠久は井伊谷で井伊家の家臣でした。井伊家が井伊谷の地頭を追われた後。徳川家康に味方して小野但馬守を討ちます。その後、徳川家康から井伊谷を任されますが井伊直政が仕官すると、直政の配下となりました。

とはどんな人だったのでしょうか。

 菅沼忠久(すがぬま ただひさ)とは

名 前:菅沼忠久(すがぬま ただひさ)
通称・官名:次郎右衛門尉
生 年:年(1679年)
没 年:年月日(1703年)
父:菅沼元景
母:
妻:鈴木重時の長女
子:菅沼忠道ほか

菅沼一族は今川家に仕える三河国の領主でした。忠久の祖父の代に遠江国井伊谷都田に移り住んでいました。遠江に来た当初は今川家に従っていたようですが、父・元景の代には井伊直盛に仕えるようになりました。

新野家のように、菅沼家・鈴木家は今川義元から井伊谷に送り込まれた家だったのかもしれません。

永禄11年(1568)。徳川家康が遠江国へ侵攻を考え始めます。家康は三河の菅沼定盈を味方につけると、菅沼定盈に今川勢の調略を命じました。忠久は同族だったこともあり、定盈の誘いに乗りました。忠久は井伊谷で同じように井伊家の被官となっていた鈴木重時や、今川家臣だった近藤康用を誘い徳川家康に味方します。

永禄11年12月(1568)。徳川家康が遠江に侵攻を開始。菅沼忠久は鈴木重時、近藤康用らとともに徳川軍に加わり井伊谷に徳川軍を案内しました。井伊谷城を小野但馬守から奪還すると、徳川家康に直訴して小野但馬守の捜索と捕縛を行います。捕まった小野但馬守は処刑されました。

翌年。堀江城攻めにも参戦。家康の遠江統一後は鈴木重時、近藤康用らとともに井伊谷跡職・二俣左衛門跡職などの領地を治めることを許可されます。井伊谷三人衆と呼ばれます。

元亀3年(1572)。武田信玄が遠江に攻めてきます。井伊谷は山県勢に攻め込まれます。忠久は井平城まで引いて他の井伊谷の武将とともに抵抗します。山県勢の猛攻に井平城は陥落。生き残った鈴木重時、近藤康用らとともに徳川家康のいる浜松城へ退却します。

井伊直政が仕官ののちは、井伊直政の配下となります。

天正10年(1582)。死去。実質的に直政のもとで働いた期間は短かったと思われます。

忠久の息子・忠道は井伊直政の配下となりました。小牧長久手の戦い、小田原攻め、関ヶ原の戦いに出陣しました。井伊家が彦根に移ってまもなく、慶長8年(1603年)死去しました。