鈴木重時・重好。井伊家と徳川家に仕えた井伊谷三人衆のひとり

徳川葵

 

鈴木重時は徳川家康に従った井伊谷三人衆の一人です。井伊家に仕える武士の一人。井伊谷三人衆の中でも比較的井伊家と関係が深い家柄でした。井伊谷の代官となった小野但馬守を攻めて井伊谷を治めますが、家康が遠江を統一する戦の中で討ち死にします。重時の息子・重好は井伊直政の配下になります。しかし、井伊家家中の争いによって井伊家を追われます。晩年は水戸藩の家老となりました。

鈴木重時と重好親子はどんな人だったのでしょうか。

 

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 鈴木重時(すずき しげとき)とは

 

名 前:鈴木重時(すずき しげとき)
通称・官名:三郎大夫
生 年:享禄元年(1528年)
没 年:永禄12年2月5日(1569年2月20日)
父:鈴木重勝
姉:井伊直満の妻
妻:奥山朝利の娘
子:重好

重時の父・重勝が三河国上吉田に白倉山城と下吉田に柿本城を築きました。鈴木家は柿本城を本拠地にするようになります。下吉田は山吉田ともいわれ、重勝の子孫を山吉田鈴木とも呼びます。

重時の母は奥山朝利の娘、姉は井伊直満の妻となり井伊家とも縁が深い家柄でした。重時は井伊直親の伯父になります。鈴木家は重勝の代までは今川家に仕えていました。重勝か重時の代に井伊家に仕えるようになりました。

永禄3年(1560)。桶狭間の戦い後も鈴木家は今川勢の一員として活躍しました。

永禄4年(1560)。宇利城の近藤氏を井伊家ともに今川勢に引き込むことに成功。今川氏真から褒美をもらいます。

永禄11年(1568)。娘婿だった菅沼忠久から徳川家康に従うよう説得され。今川家から徳川家に寝返ります。

家康の遠江侵攻では先方を務め、小野但馬守の籠る井伊谷城を攻め落とします。

永禄11年(1568)。徳川家康の命令で堀江城を攻めました。このとき近藤秀用と先を争って城門に攻めかかりました。重時は城兵に狙撃されて討ち死にしました。享年42。

 

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 鈴木重好(すずき しげよし)とは

名 前:鈴木重好(すずき しげよし)
通称・官名:平三郎、平兵衛、石見守
生 年:?
没 年:寛永12年(1635)
父:鈴木重時
母:奥山朝利の娘
妻:鳥居元忠の養女
子:重辰

 

永禄12年(1569)。父・鈴木重時が堀江城攻めで討ち死に後、家督を継ぎます。14歳だったという説もあります。

元亀3年(1572)。居城・柿本城が武田信玄配下の山県昌景の攻撃に会いました。城を守ることができません。井平城へ井平城へ退却することにします。井平氏の守る井平城は井伊谷の奥にあり、井伊谷の最後の守りといえる場所です。井伊直平の正室も井平氏出身でした。直平も井平にいたことがあります。井平城には重時の叔父・鈴木出雲守も籠っていました。

しかし武田軍の山県昌景の攻撃はすさまじく、井平城の城主・井平直成が討ち死にします。井平城も落とされてしまいます。井伊谷の武将も多くが討ち死にしました。重好は生き残った近藤秀用、菅沼忠久とともに徳川家康の居城・浜松城に退却しました。

徳川家康の命令で、近藤秀用、菅沼忠久とともに井伊直政の配下になります。

天正12年(1584)。井伊軍の一員として小牧長久手の戦いに参戦。直政のもとで戦い活躍します。

慶長7年(1602)。井伊家は彦根に移り、彦根城の普請を担当します。

井伊直政の死後、井伊直継が井伊藩主を継ぎました。

重好は木俣守勝とともに藩の政治を行います。ところが、重好とその息子が藩の金や米を流用したり、えこひいきな人事を行っていると訴えられます。その訴えは徳川家康にも伝わりました。家康は表向きはその訴えを無視しましたが、重好を隠居させ領地のある上野に退かせました。

元和4年(1618)。徳川秀忠から水戸藩に出向を命じられます。重好は水戸藩の付家老となりました。

寛永12年(1635)。水戸で死去しました。

 

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