聖徳太子(厩戸皇子)実在した皇族政治家の生涯

聖徳太子はかつてはお札の肖像にもなった有名人です。正式には上宮厩戸豊聡耳太子と言います。近年は聖徳太子は死後に付けられた名前だから厩戸皇子と呼ぶべきと話題になりました。

聖徳太子は仏教の信仰と深く結びつき現実離れした伝説が広まりました。太子作とされる書物や太子と縁のあると伝えられる仏教施設は多いです。有名になってしまったために創作された部分も多いのです。

その一方で歴史上の人物としての上宮厩戸豊聡耳太子の実像はあまり知られていません。有名なわりに意外と知られていない聖徳太子とはどんな人だったのでしょうか。

日本書紀や古事記では「上宮厩戸豊聡耳太子」と書かれれています。

教科書や歴史学者の間では「厩戸王、厩戸王子、厩戸皇子」と書かれますが。これらの呼び方も生前の聖徳太子の呼び名と証明されているわけではありません。伝説化されている部分の多い「聖徳太子」という呼び方を使わないための呼び方です。「厩戸王」の呼び方に歴史的な根拠があるわけではありません。

この記事では一般に知られている「聖徳太子」あるいは「太子」で紹介します。

 

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聖徳太子(しょうとくたいし)とは

称 号:上宮厩戸豊聡耳太子(かみつみやの うまやとの とよとみみの ひつぎのみこ)、尊 称:聖徳太子(しょうとくたいし)、聖徳王(しょうとくおう)
俗 称:厩戸皇子(うまやとのみこ)
生 年:敏達3年(574年)、572年の説もあります。
没 年: 推古30年(622年4月8日)
父:用明天皇(ようめいてんのう)
母:穴穂部間人皇后(あなほべのあしひとのひめみこ)
子:山背大兄王(やましろのおおえのみこ)

敏達3年(574)。日本書紀によれば穴穂部間人皇后が宮中を散歩中。馬官(うまのつかさ。馬をあつかう役所)に来たとき、何かの拍子に馬屋の戸があたってそれがきっかけになって、苦しむことなく生まれた。とされます。

当時の天皇・敏達天皇は仏教反対派でした。太子は母方の大伯父・蘇我馬子の影響もあり仏教を信仰するようになりました。
585年。敏達天皇が亡くなり、異母弟の用明天皇が即位しました。太子の父が天皇になったのです。しかし用明天皇は疱瘡にかかってしまい亡くなります。

蘇我氏と物部氏の争い

用明2年(587)。用明天皇が亡くなると後継者争いが起こります。次の有力候補とされたのは穴穂部皇子でしたが物部守屋に担がれていました。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ・敏達天皇の皇后)の許可を得て馬子は穴穂部皇子、宅壁皇子を殺害。

もともと蘇我氏と物部氏は仏教を公認するかどうかで対立していました。病の用明天皇が仏教を認めて以来、仏教を信仰する豪族が増え。廃仏派の物部氏は孤立していきました。

蘇我馬子は物部守屋の討伐を決定。豪族を集めました。太子や他の有力皇子も蘇我氏に味方しました。

しかし物部氏は軍事を担当する家柄です。戦のうまい物部軍相手に蘇我軍は劣勢になりました。

そこで太子は四天王の像を作り「戦に勝てたら寺を建てる」と誓いました。このとき蘇我馬子も諸天王に祈って寺を建てることを誓いました。馬子としては盛大に祈る演出を行うことで兵士たちの戦意を盛り上げたかったのかもしれません。そのときに天皇の息子である厩戸皇子らが祈ることで士気を高めたのかもしれません。

その後、物部守屋が矢にあたり戦死します。大将を失った物部軍は総崩れとなり蘇我馬子が勝ちました。

戦いのあと即位したのは蘇我馬子に担がれた崇峻天皇でした。

19歳。太子は戴冠します。政治家としてデビューしました。とはいっても若い頃の太子は仏教にのめり込んでいたのであまり政治には関心がなかったようです。

崇峻5年(592)。崇峻天皇は馬子と対立し暗殺されます。

 

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推古天皇が即位、太子は皇太子・摂政になる

推古1年(593)。額田部皇女が即位し推古天皇が即位します。史上初の”大王(おおきみ)”と呼ばれた女帝でした。太子は摂政となりました。

聖徳太子はいなかった説の矛盾

摂政という役職はない

飛鳥時代には”摂政”という制度はありません。

推古天皇は当時38歳。太子は19歳。宮中の権力争いの中で生きてきた推古天皇のほうが仏教にはまっていた太子よりも経験があります。日本書紀の編纂者は天皇を支える皇族政治家という意味で摂政という言葉を用いたのでしょう。

皇太子もない

また当時は”皇太子”という地位も確立していません。持統天皇のころに始まった制度です。でも太子は将来の天皇候補でした。推古天皇のそばで政治を行い経験を積むことは期待されていました。

にもかかわらず。神武天皇が息子(後の綏靖天皇)を「皇太子」に任命しているのをはじめとして、歴代の次期王位後継者の多くが「皇太子」と書かれています。

「皇太子」は日本書紀制作段階では導入されて間もないころ。「皇太子」の地位を周知徹底させるために日本書紀の編纂方針では「歴代の王位後継者は皇太子と書く」と決まっていたのでしょう。だから推古天皇の時点では有力な皇子だった聖徳太子が「皇太子」と書くことになった。それだけだと思います。

 

理想の皇太子説にするため創作した説 は間違い

日本書紀編纂時の最終段階で皇太子だった首皇子(聖武天皇)のために理想の皇太子像として厩戸皇子をモデルに聖徳太子というキャラクターが創作されたという説がありますが、それは疑問です。

当時すでに聖徳太子は仏教関係者の間で伝説化されたイメージが作られつつありました。

それに現実に天皇になっていない厩戸皇子を改造して皇太子の理想像にしたてあげも意味がありません。天皇より先に病死して即位できなかった人物を理想の皇太子にするのは極めて不吉です。日本書紀編纂者は首皇子には天皇にならずに死んでほしいと思っていたのでしょうか?

先程も書いたように神武天皇は自分の皇子を「皇太子」に任命しています。聖徳太子だけが皇太子と書かれているのではありません。

というわけで「聖徳太子が理想の皇太子とするために作られた」というのは日本書紀を読んでいない人物の戯言としか思えません。

 

聖徳太子は蘇我氏に近い人物

それに聖徳太子は母方が蘇我氏で蘇我馬子の娘を妃のひとりに迎えています。聖徳太子は蘇我氏と縁の深い人物で、蘇我馬子が次の天皇にしたいと思っていた皇子です。蘇我氏を悪者にしたいはずの日本書紀編纂者が歴史を捻じ曲げて書いたというのなら、敵方のはずの厩戸皇子をわざわざ理想の人物に改ざんするのは変です。

 

日本書紀編纂時にはすでに伝説化しつつあった聖徳太子

聖徳太子は仏教に熱心で法隆寺などの寺院を建造。上宮家の滅亡後。判官びいきな感情や支援者を失った法隆寺の事情もあり、仏教界を中心に伝説化が進み信仰の対象になりました。

日本書紀の聖徳太子の記述にも信仰の中で伝説・美化されたイメージが入りこみました。そんなに凄い人ならこういうこともしたに違いない。と盛られている部分もあるでしょう。でもそれはもともと人々の印象に残る人物だったから。

日本書紀編纂時には有能な人物としての聖徳太子像はすでにできていた。日本書紀は世間で信じられている聖徳太子像を書いただけ。といえるかもしれません。

確かに日本書紀の記述はどこまでが事実か分かりづらい部分はありますが。政治的な理由で創作したキャラというのは飛躍しすぎ。ただの陰謀論でしかありません。

 

政治家として歩みだした聖徳太子

太子は物部守屋との戦いの時の誓いを守り、摂津国難波に四天王寺を建てます。

推古3年(595)。高句麗から僧の慧慈、百済から儒学者の覚哿が来日しました。太子は慧慈から仏教を、郭嘉からは儒教を学びます。慧慈は高句麗、覚哿は百済の人です。

経典は漢文で書かれています。ですから太子は漢文と高句麗と百済の言葉も理解できたと思われます。蘇我氏は多くの渡来人をかかえていました。蘇我氏の人脈をつかえば渡来人に学ぶことは可能だったでしょう。

この頃の太子は政治よりも学問や仏教に重点をおいていたようです。

推古5年(597)。新羅に使者の吉士磐金を派遣します。欽明天皇の時代に任那(伽耶)を失って以降、伽耶の地を回復することは悲願でした。伽耶を支配している新羅に伽耶が日本に朝貢を再開させるよう交渉しました。しかし新羅は日本の要求を認めませんでした。

推古8年(600)。新羅に軍を派遣します。戦いの末、新羅に貢物を出させる約束をします。しかし日本が撤退したあとふたたび新羅が迦羅を占領しました。

遣隋使の派遣開始

日本側の記録にはありませんが。隋の記録には使者が来たと記録されています。(第1回遣隋使)。

このとき隋は日本の政治の仕方が道理に合わないとして改めるように言いいました。このあと日本は大陸式の制度を整えていったと考えられます。冠位十二階の制度もそのひとつだったようです。

推古9年(601)。太子は斑鳩に屋敷を建ます。のちに斑鳩宮は上宮と呼ばれます。

推古10年(602)。日本の要求を拒否する新羅に軍を派遣することになりました。太子の同母弟・来目皇子を将軍にしました。筑紫の国で海を渡る準備をしている最中に病気で亡くなりました。
推古11年(603)。異母弟・当麻皇子を将軍に任命しましたが播磨まで来たところで妻が死んだので帰りました。遠征は中止になりました。

推古12年(604)。冠位十二階が作られました。太子は蘇我馬子とともに官位を授ける権限がありました。

推古13年(605)。斑鳩寺(法隆寺)を建てます。

推古14年(606)。太子は推古天皇に経典の講義を行います。

このころ本格的に斑鳩宮に移り住んだといわれます。

 

日出づる処の天子

推古15年(607)。第2回遣隋使派遣。使者は小野妹子です。

このとき送ったのが有名な「日出づる処の天子、日没する処の天子に致す。つつがなしや」という有名な文書です。

隋の皇帝・煬帝は朝貢した国なのに「天子」と名乗っていることに怒りました。中華思想では中原を制する国だけが文明国でほかは全て野蛮人と考えます。そんな野蛮人が「天子」と名乗ったり「つつがなしや」と対等な言葉を使ったのです。中華思想の国にとっては、極めて無礼な内容でした。

隋の感覚では「天子」を名乗ることができるのは隋の皇帝だけ。「つつがなしや」も「元気か?」という感覚です。自分だけが偉いと思っている隋にとっては不愉快な内容です。隋に国境を接する国がこんな手紙を送ったら戦争になったかもしれません。

聖徳太子は煬帝を仏教を広める偉大な皇帝として尊敬はしていました。でも日本は随の属国になるつもりはありません。それに日本は海に囲まれています。聖徳太子は最初から隋は攻めて来られないという思惑があったのでしょう。聖徳太子というと平和主義者のイメージがあるかもしれません。でも外国に対しては強気な面もある人だったようです。

それでも隋は使節を送ることにしました。その背景には隋の周辺の不安定な国際情勢も関係していると考えられます。当時の隋は朝貢に従わない高句麗を従わせようとして開戦寸前の状態でした。突厥(とっけつ)という国とも問題を抱えていました。これ以上の問題は抱えたくなかったのかもしれません。

608年。小野妹子は返礼の使節・裴世清(はいせいせい)とともに帰国。ところが小野妹子は皇帝の返書を百済に奪われたとして届けませんでした。

妹子は責任を取って一時流刑になりかけましたが許されました。あまりにも軽すぎる処分でした。日本としては受け入れられない内容だったので太子らと共謀して紛失したことにしたのではないかといわれています。あるいは本当に失ったのかもしれません。皇帝の返書があるのに提出しなかったら裴世清が文句を言うはずだからです。

推古16年(608)。裴世清の帰国に合わせて遣隋使として小野妹子を派遣します。

第3回遣隋使。
このとき送ったのは「東の天皇、つつしみて西の皇帝に申す」という文章で始まる書簡でした。「日いづる国の天子~」と比べると、多少相手を持ち上げる表現になってますが天子と同じ意味の天皇という言葉を使ってます。日本と隋の妥協点を探って作った文章なのでしょう。

この時代に「天皇」という言葉が大王を意味する称号として決まっていたかどうかはわかりません。「天皇」という言葉を使いはじめたのが推古天皇の時代といわれています。

隋の文化や仏教を学ばせるため留学僧を同行させました。

このとき小野妹子が隋からある鎧を見せられました。それは隋が流求(屋久島から台湾の間のどこか)に出兵して戦利品として持ち帰った鎧でした。小野妹子をそれを見て夷邪久国(屋久島)のものだと判断します。隋の力が日本の近くに迫っていると思ったことでしょう。

推古18年(610)。新羅と任那の使者が貢物を持って日本に来ました。任那の使者の正体は新羅の役人。任那の地の回復は欽明天皇以来の悲願でした。隋の圧力によって新羅は形だけでも使節を送らざるを得なかったのでしょう。高句麗戦を控え、倭を高句麗から引き離したい隋。高句麗との戦いで隋に助けてほしい新羅。新羅に奪われた任那からの貢物がほしい日本の利害が一致したものでしょう。

この年、第4回遣隋使を派遣。

推古19~20年(611~612)。隋が高句麗に侵攻、しかし隋が敗退します。
推古22年(614)。第5回遣隋使を派遣。帰りの船で百済の使者が来ました。
記録に残る遣隋使は614年の使節が最後です。

推古26年(618)。隋が滅亡。度重なる高句麗遠征が原因だとされます。聖徳太子は大きなショックをうけたかもしれません。聖徳太子は隨の煬帝を「西の菩薩天子」と呼んでいました。社交辞令が入っているとはいえ、仏教を普及させる偉大な王との認識はあったでしょう。その隨が滅んでしまったのです。

また随との外交を主導していた聖徳太子に対する風当たりは強くなったかもしれません。再び百済との外交を活発にさせようとする蘇我氏との関係も悪くなったかもしれません。

この年、十七条憲法が完成しました。

以後、聖徳太子は政治活用よりも編纂、宗教的活動が多くなります。

推古28年(620)。天皇記、国記を編さんします。天皇家(大王家)の系譜、国内の記録をまとめたものです。

推古30年(622)。死去。享年49歳。

生年、没年には諸説ありますが有力なものを採用しています。

その後、隋の滅亡、太子の死去などで使節の派遣はしばらく途絶えます。

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聖徳太子は外務大臣

太子の時代は推古天皇を中心に蘇我馬子、厩戸皇子が天皇を支える政治体制でした。推古政権の対外的な部門を担当したのが厩戸皇子だったといえますね。

 

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