武田信虎・信玄に追放された父親は息子よりも長生きだった

武田信虎は武田信玄の父親です。信玄が信虎を追放して武田家の主になりました。そのせいで乱暴でわがままな大名の印象が強く残ります。

しかし、信虎は力を失っていた武田家をふたたび甲斐の国主にしました。信玄が家督を継いだときに他国を攻めることができるまでに大きくしていたのです。

武田信虎はとはどんな人だったのでしょうか。

武田信虎とは

名 前:武田信直(たけだ のぶなお)→ 信虎(のぶとら)
通称・官名:左京大夫 陸奥守
法名:無人斎道有
生 年:明応3年(1494年)あるいは明応7年(1498年)
没 年:天正2年3月5日(1574年3月27日)
父:武田信縄 
母:岩下氏
正室:大井の方(瑞雲院)
側室:今井氏娘(西昌院)、楠浦氏、工藤氏、松尾氏、上杉憲房前室
子:信晴、信繁、他11男、9女

信虎の生年は通説では明応3年生まれとなっています。若い頃は信直と名乗っていたともいわれます。いつ改名したのか不明なので本記事では信虎で統一します。

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武田家を相続

武田家は代々続く甲斐国守護の家柄でした。しかし信虎が家督を相続したときには、甲斐国内で争いが続いていました。武田家も家督相続でもめたりして武田家の力は弱まっていました。武田家から別れた一族でも素直に従わず対等の立場を主張、あわよくば取って代わろうという領主が多くありました。

武田家の相続をめぐって信虎の父・信縄と伯父の武田信恵が争っていました。

永世4年(1507)。信縄が討ち死に。信虎は14歳(明応3年説による)で家督を相続します。

永世5年(1508)。武田信恵を破り討ち死にさせます。武田家の相続問題が決着しました。

信恵に味方していた小山田弥太郎を打ち取ります。弥太郎の息子・小山田信有に妹を嫁がせて味方にします。

甲斐国統一への道

信虎は大井信達との同盟を考え、信達の娘を妻にほしいともちかけました。大井氏は武田家から独立した一族でしたが、信虎の代には大井氏のほうが強い勢力をもっていました。信達は家格は上でも勢力の弱い武田家との縁組を望んでいませんでした。

永正12年(1515年)。信達の息子、信業が兵をあげました。信虎は大井氏の本拠地・上野椿城を攻めますが今川氏親が大井信達に加勢したこともあり失敗。

永正13年(1516年)。信達は今川氏親と同盟して今川の兵を甲斐に呼び込みます。甲斐の領主・穴山信綱も今川に味方しました。今川勢は武田家と同盟していた油川氏の勝山城を攻撃して占領しました。吉田山城も占領し大井信達を援護します。

信虎は小山田氏とともに勝山城を包囲します。

永正14年(1517年)。信虎は吉田山城も攻撃しました。吉田山城が落城すると今川氏親は和睦しました。

その後、大井信達も信虎に和睦の使者を送ってきたので和睦しました。

永正16年(1519年)。信虎は、本拠地を甲府に移し、躑躅ヶ崎館を建て城下町を整備しました。

永世17年(1520)。信虎は信達の娘(大井夫人)を妻にします。

信虎は国衆に対して甲府に移住するように命令しますが、国集は反発します。大井信龍、今井信是、栗原氏が反乱を起こしたので撃破しまして降伏させます。

永正18年(1521年)。今川方の福島正成が攻めてきました。穴山氏も今川氏に従ったといいます。この戦いは大永2年(1522年)まで続きました。信虎は今川勢を撃破。福島正成を撃破し今川勢は撤退しました。穴山氏は降伏しました。この戦いの最中に長男・信晴が生まれました。

この戦いで信虎は甲斐国を統一します。

北条、諏訪との戦い

甲斐を統一した信虎は、外へ勢力拡大を図ります。上杉と同盟し、相模の北条氏を攻めました。その後、北条とは同盟をしたり破棄したりを繰り返し一進一退が続きます。

大永5年(1525年)には信濃国諏訪家の内部争いがおこり、諏訪殿(金刺昌春?)が甲斐に亡命してきました。

享禄元年(1528年)。信虎は諏訪殿を担いで信濃国諏訪家の家督争いに介入。信濃国に侵攻しました。諏訪頼満・頼隆相手に敗退します。

このあと前関東管領の山内上杉氏より側室を迎えます。上杉が北条領へ攻め込むと、信虎も小山田氏を派遣しますが敗退しました。上杉家との同盟したことで北条家との関係は悪化しました。これには家中から反発が起こります。

享禄4年(1531年)。栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが諏訪頼満に寝返りました。大井信業(大井夫人の兄弟)も反乱を起こします。

信虎は反乱勢力をことごとく撃破。今井、大井を滅ぼし、飯富虎昌、栗原兵庫を降伏させます。

天文2年(1533)。嫡男・太郎(晴信)の正室に上杉朝興の娘を迎えますがすぐに死去しました。

諏訪・今川との同盟

信虎は天文4年(1535)。信虎は諏訪頼満と和睦し、同盟を結びます。三女・禰禰を頼満の孫・頼重に嫁がせました。

嫡男の太郎が元服し、武田信晴となりました。

3月。今川氏輝が死去。今川家の相続争い(花倉の乱)が起こります。信虎はこの争いで勝った今川義元と同盟を結びます。

天文5~6年(1536~7)ごろ。信虎の娘・定恵院を今川義元に輿入れさせます。

義元の仲介で公家の三条家から娘を迎え、信晴の正室にしました。

武田と今川の同盟は武田、今川双方で問題となりました。一部家臣が反乱を起こしましたが信虎は鎮圧しました。

天文5年(1536年)。武田信虎と同盟した今川義元に対して北条氏綱が攻めてきました(第一次河東の乱)。信虎は義元を援護するため駿東に軍を派遣しました。それに対して北条氏綱も武田領に攻めてきました。

天分8年(1539年)。信虎は氏綱と和睦しました。駿東は北条氏綱が占領したままでしたが、第一次河東の乱は一応の小康状態になりました。

天文10年5月25日(1541)。諏訪頼満、村上義清と同盟して信濃国佐久郡を攻撃。海野氏は逃走。海野棟綱は関東管領・上杉憲政に助けを求めました。上杉憲政が軍を派遣してきたので、上杉と同盟していた信虎は兵を引き上げました。

息子に追放される

天文10年6月(1541)。信虎は信濃から戻りました。娘の嫁ぎ先の駿河へ向かいます。

ところが、板垣信方・甘利虎泰といった重臣が信晴を支持して反乱を起こしました。信晴派は国境を封鎖。信虎は甲斐に戻れなくなってしまいました。信虎は駿河にとどまることになり、甲斐国は息子の信晴が治めることになります。

原因は諸説あります。
信虎の方針をめぐって家臣団には不満が高まっていたといわれます。もとより、武田家は強固な主従関係のある組織ではありませんでした。それぞれが独立心のある領主の連合体のような集まりでした。あまりに独善的だった信虎は家臣たちの意見を軽視したために、家臣団に不満がたまっていったものと思われます。

このとき、正室の大井夫人は甲斐に残っていましたが、側室は信虎に同行していましたので、ともに駿河で暮らしています。

追放後の信虎

天分12年(1543)。信虎は上洛して京都、奈良、高野山を見物しました。
その後は駿河で暮らしていたと考えられます。駿河では側室との間に子供も産まれています。

永禄元年(1558)。このころから京に屋敷をかまえていた様子がうかがえます。毎年、公家が信虎の屋敷へ挨拶に来ていました。実質的に武田家の主となったのは信玄でした。しかし信虎は室町幕府の中ではいまだに甲斐国守護の肩書をもっていたのです。

永禄3年(1560)。菊亭晴季に末女を嫁がせました。

天正2年(1574年)。信玄が死去すると、三男・武田信廉の高遠城に移り住みます。同年3月5日。高遠城にて死去しました。

長男・信晴とは仲が悪かったようですが他の子供達とは悪くなかったようです。

ドラマ

武田信玄 1966年、よみうりテレビ、演:高田浩吉
天と地と 1969年、NHK大河ドラマ、演:田崎潤
武田信玄 1988年、NHK大河ドラマ、演:平幹二朗
齋藤道三 怒濤の天下取り 1991年、テレビ朝日、演:和崎俊哉
武田信玄 1991年、TBS、演:千葉真一
風林火山 1992年、日本テレビ、演:丹波哲郎
風林火山 2007年、NHK大河ドラマ、演:仲代達矢

コメント

  1. 加藤結奈 より:

    全体的にわかりやすい説明でとても読みやすかったです。
    ですが、少し間違った書き方をしていた部分がありましたので、訂正を入れさせていただきます。
    武田信虎の実際の嫡男は、武田竹松という人物でしたが、8、9歳で夭折してしまったので、次男(竹松が廃嫡されたため、事実上は嫡男)の、『信晴』ではなく、『晴信』が家督を継ぎました。あと、武田信虎は、15歳(14歳、16歳とも)、から、『信直』という名前を、28歳(29歳とも)まで使っていたと伝えられています。あと、富士登山を行った人物でもあり、無事に登頂し(現代では7合目あたりであったとも)甲斐を一望したそうです。
    最後の訂正ですが、北条氏親という人物は、北条氏康の長男(16歳で早世したため、事実上の嫡男は次男の北条氏政)で、河東一乱は、北条氏綱が後北条家当主の時に、今川領へ侵攻し、蒲原城を奪取しました。北条氏綱は、1541年(1540年とも)に病没したので、北条氏親は数えて、2、3歳なので、当然父の、北条氏康が家督を継いでいます。少し誤字や年表の表記の間違いが気に掛かりましたので、表記の訂正としては、『今川領に対して北条氏綱が攻めてきました(第一次河東一乱)。信虎は義元を援護するため駿東に軍を派遣しました。それに対して北条家も武田領に攻めてきました。天文10年7月19日。北条氏綱が死後、あとは北条氏康が継ぎました。(ちなみにこの年は、まだ北条氏は武田氏と和睦はしていません)』。長文失礼致しました。

    • 文也 より:

      加藤結奈さんこんにちは。詳しい説明ありがとうございます。内容を検討して書き直してみます。