マッサンのモデル 竹鶴政孝。スコットランドでのリタとの出会い

連続テレビ小説「マッサン」の主人公・亀山政春のモデルとなったのが、竹鶴政孝。ニッカウヰスキーの創業者です。

広島県竹原市の酒蔵の息子として産まれました。大阪の摂津酒造に入社。本格ウイスキーの製造を目指してスコットランドに留学します。

スコットランドではホームシックになりましたが、そこで妻になるリタと出会い結婚しました。

日本に帰国後、本格ウイスキー作りを目指しますが、会社は不景気でそれどころではありません。悩んだ末、政孝は摂津酒造を辞めます。そこに声をかけてきたのが鳥居信治郎でした。

竹鶴政孝とはどんな人だったのか紹介します。

 

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 竹鶴政孝とは

 

生年:明治27年6月20日(1894年)
没年:昭和54年8月29日(1979年)
生誕地:広島県賀茂郡(広島県竹原市)
名前:竹鶴政孝(たけつる まさたか)
父:竹鶴敬次郎 
母:竹鶴チョウ

妻:竹鶴リタ

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誕生から摂津酒造に入社するまで

竹鶴家は三大塩田地主のひとつでした。江戸時代から酒造業も行っていました。

政孝の父・敬次郎は分家でした。本家の主人夫妻が亡くなったため、政孝の両親が本家の後見人になりました。

政孝は三男ですが、敬次郎が本家に移り住んでから産まれました。政孝は本家で育ちました。

政孝は好奇心旺盛で、かなりの暴れん坊だったといいます。体のあちこちに傷のあとが残っていたといいます。8歳のときに階段から落ちて鼻を7針縫う大怪我しました。もともと大きかった鼻がさらに大きくなりました。そのせいでしょうか、人が感じない匂いを嗅ぎ分けることが出来たといいます。

政孝は酒蔵を遊び場として育ち、酒作りに興味を持ちました。

大阪高等学校在(現在の大阪大学)卒業後、大阪の摂津酒造で働き始めました。

摂津酒造は当時の洋酒メーカーではトップのメーカーでした。摂津酒造は模倣ウイスキーを作っていました。他社ブランドの「赤玉ワイン」の製造を行っていました。

若いのに腕がいい、と社内でも評判になりました。

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スコットランドに留学

摂津酒造の社長阿部喜兵衛は本格的なウイスキーを作りたいと考えていました。そこで阿部喜兵衛は政孝にスコットランド留学を命じました。

政孝の両親は家業をつぐものと思っていたため落胆しました。政孝は両親を説得してスコットランド行きを認めてもらいました。

大正7年(1918年)。政孝は摂津酒造の人々に見送られ神戸港を旅立ちました。社長の阿部喜兵衛をはじめ、その中には寿屋(赤玉ワインの発売元)の鳥居信治郎の姿もありました。

ところがスコットランドに留学後。半年後にはホームシックにかかってしまいます。夜になると涙で枕を濡らすこともありました。

そんなとき出会ったのが、ジェリー・ロバータ(リタ)・カウンでした。リタは、政孝と同じグラスゴー大学の学生だったイザベラ・リリアン(エラ)・カウンの姉でした。

エラの末弟に柔道を教えるためにカウン家を訪れました。そのときに、リタと出会ったといいます。音楽という共通の趣味を通じて政孝とリタは親しくなりました。

しかし政孝は日本に帰らなくてはいけません。リタと離れたくない政孝はこのままスコットランドで暮らそうとリタに言いました。しかしリタはスコットランドにとどまるべきではないといいました。

大正9年(1920年)。政孝とリタはグラスゴー登記所で結婚の宣誓を行いました。現代だと役所で婚姻届を出したことになります。リタの母親の反対で結婚式は出来ませんでした。

政孝の留学が終わり、キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で研修が始まりました。政孝はさまざまな蒸留所を訪ねましたが、メモや質問を断られていました。ヘーゼルバーン蒸留所の所長は恩師の知り合いでした。ヘーゼルバーン蒸留所ではくわしく学ぶことが出来ました。

リタもキャベルタウンで一緒に暮らしました。やがて妹の説得で母親も結婚に賛成してくれました。しかし政孝の両親も反対していました。二人の結婚を諦めさせようと摂津酒造の阿部社長が説得に来ました。しかし美しいリタを見た阿部は結婚に賛成してしまいました。

二人はグラスゴーでリタの家族や阿部社長に祝福され結婚式をあげました。

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帰国から寿屋入社まで

11月。政孝は妻のリタと共に帰国しました。
日本で初めて本物のウイスキーを作ることが出来る。と手応えを感じて帰国した政孝を待っていたのは不況でした。

第一次世界大戦後の戦後大恐慌です。戦時中の特需で業績を伸ばしていた摂津酒造も経営不振になっていました。

政孝は洋酒部門の技師長として月給150円で雇われていました。特別高給料というわけではありませんが、当時としては珍しい洋館も与えられていました。阿部社長も気を使っていたようです。

政孝はウイスキーの醸造計画書を何度も作成し何度も書き直して提出しました。

ウイスキーに合った土地を買い製造できる設備を作るのは無理としても、今の社内に設備を作れないかと役員を説得しました。

しかし重役会議で却下されてしまいます。

阿部社長からは景気の回復まで辛抱してくれと言われましたが、政孝は納得できません。摂津酒造としては本格ウイスキーの製造方法を知る政孝は必要としなくなっていました。政孝も本格ウイスキーを作ろうとしない摂津酒造にいる意味はないと考えるようになりました。

そこで「しばらく浪人したいと思います」と阿部喜兵衛社長に伝えました。阿部社長は「残念だが」と漏らしただけだったと自伝などでは書かれています。

ですが、工場長とモメて突発的に辞めてしまったともいわれます。

会社を辞めた政孝は帝塚山(大阪市)の自宅近くの中学校で化学の教師をはじめました。妻のリタは英語とピアノを教えながら暮らしました。

大正12年(1923年)。寿屋の鳥居信治郎が政孝の家を訪ねてきました。鳥居は自社で本格ウイスキーを造るので寿屋に来てほしいというのです。

しかし教員として仕事を始めたばかりの政孝は、すぐに今の仕事をやめるわけにも行きませんでした。それに摂津酒造を辞めたとはいえ、摂津酒造ライバルでウイスキーを造ることへの抵抗もありました。恩人の阿部社長を裏切ることになるのではないかと思ったのです。

それでも鳥居は何度も政孝の家を訪れました。しだいに政孝も鳥居の考えに傾いていきまいsた。そしてついに鳥居のもとでウイスキー作りをすることを決断します。

鳥居は酒作りをすべて政孝に任せる。任期は10年。年俸4000円という破格の条件を出しました。大学の月給が40~50円。摂津酒造時代が月給150円。年俸4000円は摂津酒造時代の収入の倍以上になります。鳥居はそれだけ政孝に期待していたのでした。

いよいよ竹鶴政孝と鳥居信治郎のウイスキー作りが始まります。

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