豊臣秀次はなぜ死んだ?秀吉はなぜ秀次を亡き者にしたのか

豊臣秀次

豊臣秀次はなぜ切腹したのでしょうか。秀次が謀反を企てたというのが秀次切腹の表向きの理由となっています。

でも当時から秀次謀反は信じがたいこととして言われていたようです。

本当に謀反であれば、切腹ではなく斬首か極刑となるはずですよね。
処分するためのいいがかりに過ぎないように思えます。

秀次の死について、大河ドラマ「真田丸」でも採用された新説も含めて紹介したいと思います。

実はよくわからない

秀次の粛清の理由は明らかにされていません。
秀吉は「相届かざる子細」。奉行衆も「不慮之御覚悟」とだけしか述べていません。「(秀吉の)思いどおりにならない」とか「言うのがはばかれる」というありさまでした。

作られた罪状

そこで、当時からさまざまな憶測が飛び交うことになったのです。

秀次の普段の行いが悪かったせいだと言われてきました。平気で人を殺める乱暴な人物だとされたのです。秀次の塚に「秀次悪逆」と書いたように意図的に悪い噂を流して、秀次は暴君だったという評判を広めて言ったのです。

街中で千人切りを行った。あるいはささいなことで町人を殺した。といわれますが、他の犯罪者の罪を着せられてしまったものでした。

正親町上皇の喪の期間中に鶴を食べたり鹿狩りをしたといいますが、秀次が鹿狩りをしたのは喪が明けてからでした。

誇張・勘違いされた罪状

秀 次は「女狂い」だったとも言われます。確かに28歳という若さのわりに側室は多かったです。34人の側室がいました。そのわりに子供は5~7人だったとい われます(処刑されたのは5人)。秀吉の後継者とされる秀次に大名達や公家が娘を差し出した場合もありました。確かに好色かもしれません。仕事を放棄して 遊んでいたというわけではありません。

黒田如水は秀次が朝鮮出兵のとき、肥前名護屋に来ないのは女狂いで遊びふけっているからだと書いてます。もともと秀次は外国との戦争には否定的でした。

生きた人間を鉄砲の標的にしたとか、刀の試し切りのため生きた人を切ったという話もあります。

秀次は家臣の切腹の介錯をするほどの剣の腕前でした。自身も名刀を幾つも所有し、秀吉から刀の鑑定を頼まれることもあるほど刀剣好きでした。

宣教師フロイスは、秀次が人を切るのを楽しむ野蛮人、罪人の処刑には自ら処刑人を務める。と書いています。

でも、死罪の者に対する刑で刀で切る方法というのがあるのです。罪人を使って刀の試し切りをするというのは当時の日本では当然のことでした。確かに刀の試し切りのために罪人を自ら切ってるというのは、大名らしくない行為かもしれません。 普通は腕の立つ家臣にやらせます。でも血気盛んな年頃であれば行ったかもしれません。それが誇張されたのかもしれません。

秀吉の心しだい

秀次は好色で血の気が多いところはあるかもしれませんが、一族皆処刑されなければいけないほど酷いことをしていたわけではなさそうです。

『一族が処刑されるくらいだから、よほど酷いことをしたに違いない』という大衆心理が勝手な犯罪履歴を作り出して、後の世に創作されていったものといえます。

歴史家はさまざまな説を考えていますが、権力を独り占めする者が人を殺すには理由は要りません。現代でも世界の独裁国をみれば分かることです。

秀頼を溺愛する秀吉にとって秀次が邪魔な存在だった。
それだけは間違いありません。

最近では秀次は勝手に自害してそれに腹を立てた秀吉が一族を皆ごろにした。
という説もあります。この説にはこれといった根拠はなく想像上の話です。

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真田丸でも採用・秀吉は切腹命令を出していなかった説

矢部健太郎の発表は秀吉は秀次切腹の命令は出していなかったという説を発表しました。大河ドラマ「真田丸」でもこの説は一部採用されて注目が高まっています。

その説を大まかに書くとこのようになります。

秀吉は秀頼の将来の邪魔になる秀次の失脚を狙った。
秀吉に会ってもらえない秀次は、秀吉が怒ってると思い込んで勝手に高野山に行った。
高野山に行った秀次に対して、秀吉は高野山(青巌寺)で暮らすように指示。
しかし、使者として訪れた福島正則が秀次に”無実を証明するなら切腹しろ”と進言。
秀次は無実を訴えるため切腹。
秀次の行動に秀吉激怒。(青巌寺は秀吉の母の菩提寺、ゆかりの寺を汚された)
謀反人の一族ということにして妻子を処刑。
というものです。

どうやら歴史研究家の間でも注目されてるらしく小和田氏監修の「新解釈・豊臣秀吉」でも取り上げられています。小和田氏は秀次暴君説を否定する立場ですが、矢部説をどこまで支持してるのか不明です。

テレビでもBS日テレ・片岡愛之助の解明!歴史捜査で紹介されました。番組中で矢部氏は「秀吉が秀次を切腹させたと言われるのは冤罪だ」と主張しています。

でも、都合が悪くなったので失脚させて飼い殺しにして。生かしてやろうと思ったのに勝手に死んだからとか菩提寺(青巌寺は大政所ゆかりの寺)を汚されたからという理由で妻子家臣を処刑。というのはかえって秀吉の身勝手さ狂気さを強調することになるように思います。

当時の武士なら、飼い殺し(秀頼が関白を継げる歳になるまで幽閉。そのあとは?)にされるよりも切腹を言い渡された方がましだったと思うのです。死刑の命令を出してないからひどくないというのは現代人の価値観をもとにした発想のように思いますね。

関白の職にある秀次が秀吉の命令もないのに唐突に高野山に行った理由もわかりませんし。じゃあ秀次が高野山に行かなかったら秀吉はどうするつもりだったのかも不明です。秀次が高野山に出発して自害するまでの間にも秀次の家臣がつかまったり死んだりしているのも気になります。

確かに従来のどの説にも疑問なところはあります。矢部説にも説明のつかない部分はあります。でも斬新な説なので最近のメディアや研究者の間でも人気があります。今後さらに研究がすすむことを期待したいですね。

いずれにしても秀次の死に関してはわからない部分が多く依然として歴史の謎として残ります。でも、秀次の存在が秀吉にとって邪魔になったのは確かで。直接切腹の命令書を出したかどうかはともかく、秀次を死に追いやり一族を皆殺しにしたのは秀吉なのは変わらないようです。

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