築山殿(瀬名姫) 徳川家康の正室は悪女だったの?

築山殿(瀬名姫)は徳川家康の長男・信康の母親。武田家と内通して処刑された人として知られています。悪女として語られることの多い築山殿ですが、作られた話も多く本当のことはよくわかりません。

築山殿は家康の母から嫌われていました。瀬名姫が今川家臣の娘だったからです。家康との仲もよいとはいえなかったかもしれません。息子・信康の嫁となった徳姫との仲はとくに悪かったようです。

従来、築山殿の母は今川義元の実の妹だとされていました。しかし、井伊直平の娘だったらしいこともわかってきました。

今川、徳川、織田それぞれの家の思惑が築山殿の運命を翻弄することになります。

築山殿(瀬名姫)とはどんな人だったのでしょうか。

 築山殿(瀬名姫)とは

名 前:不明
通 称:瀬名姫(せな)、鶴姫、駿河御前、築山殿(つきやまどの)
生 年:不明
没 年:天正7年(1579年)
父:関口親永(瀬名義広)
母:今川義元の妹(井伊直平の娘)
夫:徳川家康
子:徳川信康(松平信康)、亀姫(奥平信昌室)

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瀬名姫・築山殿の名前は?

築山殿の生前の名前はよくわかっていません。
瀬名姫、鶴姫という名前も伝わっています。本名だったかは不明です。

駿河国から嫁いできたので駿河御前とも呼ばれていたようです。

岡崎の築山に幽閉されていたことから築山殿、築山御前とも呼ばれます。つまり松平元信(徳川家康)と結婚したときには築山殿とは呼ばれていなかったんですね。

父・関口親永はかつて瀬名義広と名乗っていました。瀬名家出身ですが関口家を相続したんですね。父の実家の名から瀬名姫と呼ばれていたのかもしれません。

築山殿(瀬名)の母はかつては今川義元の実妹だといわれてました。しかし、井伊年譜、系図纂要などでは井伊直平の娘とされています。井伊家が今川家に服従したとき、井伊直平の娘が人質として今川家に来ました。直平の娘は今川義元の側室になったと考えられますが、後に重臣の関口親永の正室になります。そのときに今川義元の妹ということにして関口家に来たのでしょう。

関口親永と井伊直平の娘との間に生まれたのが瀬名姫(築山殿)です。つまり瀬名姫は井伊家の血をひいているのですね。

弘治3年(1557)。瀬名姫は今川家に人質として来ていた松平元信(徳川家康)と結婚します。瀬名は今川義元の養女になったあと結婚しました。今川義元としても元信にはそれなりに高い待遇を与えていたつもりなのでしょう。

永禄2年(1559)。信康が生まれます。

永禄3年(1560)。亀姫が生まれます。後に亀姫は家康の配下となる奥平信昌の正室になります。奥平家は長篠の合戦の原因になった長篠城を守る家。武田勝頼に従っていた奥山家を調略するために縁組させられたのが亀姫でした。

瀬名姫の父は今川家重臣。松平元信が今川家臣だったころは元信に対して発言力もあったかもしれませんし、今川家中で松平元信が出世するのを願う人だったのかもしれません。

しかし今川義元の死で実家が力を失うと瀬名姫の立場も大きく変わってしまいます。

今川義元の死が瀬名姫の運命を変える

同年。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると松平元康が岡崎城に入ります。その間も瀬名は子供たちとともに駿府にいたようです。今川家の人質です。

永禄5年(1562)、家康が織田信長と同盟を結びました。今川氏真は激怒。父・関口親永は裏切りを疑われて切腹を命じられます。親永は妻とともに自害しました。

夫・松平元康の裏切りで父と母が処刑されてしまったのです。

瀬名姫は人質交換で子供たちとともに駿府から岡崎に来ました。このとき交換された人質は今川義元の妹の夫・上ノ郷城城主・鵜殿長照の子供です。

築山殿と呼ばれる理由

ところが家康の生母・於大の方は瀬名を嫌っていました。瀬名姫は今川家重臣の娘、今川の都合で縁組させられた嫁。今川家に息子を人質にとられた於大の方にとっては敵のような存在でした。於大の方は岡崎城に入ることを許しませんでした。瀬名姫は岡崎城の近くにある総持寺(愛知岡崎市)で暮らしました。この土地が菅生郷築山という地名でした。だから築山殿と呼ばれるようになりました。

とはいっても息子の信康は家康の血を引く長男です。信康は岡崎城で育てられました。

永禄10年(1567)。長男・信康と織田信長の娘・徳姫が結婚します。信康と徳姫は岡崎城で暮らしました。このときも瀬名姫は城の中には入れませんでした。

元亀元年(1570)。徳川家康は岡崎から浜松に移りました。信康が岡崎城主となります。瀬名姫はようやく岡崎城で暮らせるようになりました。

謀反の疑いで処刑

天正7年(1579)。徳姫が父・織田信長に書状を送ります。瀬名姫が徳姫についての悪口を信康にいったこと。武田と内通してること。瀬名姫が唐人医師・減敬との密通をしていること。などを書きました。

激怒した信長は家康に信康と瀬名の処刑を命じたといいます。

8月3日。家康が岡崎城に訪れて、信康が他の城に移るように命じました。

8月29日。家康は瀬名姫の処刑を命令。二股城へ護送中に小藪村で殺害されました。

9月15日。息子の信康が切腹しました。

築山殿悪女説はねつ造?

築山殿(瀬名姫)には悪女のイメージがあります。

家康が今川家を裏切ったことで父・関口親永が処刑されました。そのせいで家康を恨んでいたとも言います。家康の母・於大の方は今川家ゆかりの築山殿を嫌っていました。そのため岡崎城には入れてもらえませんでした。

築山殿と家康もあまり仲が良くなかったようです。

今川義元を討った織田家から来た徳姫と築山殿が仲が良くなかったのは確かでしょう。信康と徳姫の仲も良くなかったといいます。信康の治める岡崎城内では徳姫の不満がたまっていたのでしょう。徳姫の不満が父・信長への手紙につながったと考えられます。

しかし築山殿が唐人医師・減敬との密通したいたというのは作り話だと考えられています。夫や姑に対する徳姫の不満が父・信長に手紙を出すきっかけになったのでしょう。

徳川家の記録では築山殿は嫉妬深い悪人として描かれています。浜松で側室を流産させたなどの記録がありますが。当時は築山殿は浜松にいなかったので濡れ衣だと考えられています。

神君家康公信仰が築山殿のイメージを変えた?

江戸時代の徳川家康は神様のような存在です。織田信長に命令されたとはいえ妻子を殺害してしまったのは不名誉なことでした。そこで、築山殿は処刑されても仕方ない人物に仕立て上げられたのではないかと言われています。

信康についても同様です。徳川家の記録には信康は些細なことで人を殺す乱暴者に描かれています。実像より悪人に描かれている可能性はあります。

岡崎城では織田派と武田派の争いがあった?

武田家との内通に関してはでっちあげとする意見もありますが、やはり内通はあったとする説もあります。築山殿本人が内通したかどうかはわかりません。しかし天正3年(1575)に岡崎城の大賀弥四郎が武田勝頼に内通していたという事件がありました。

武田領に近い岡崎の家中には織田よりも武田と協力すべきではと考える者もいたようです。信康が武田に味方しようとしていたのかわかりません。しかし家中が武田派と織田派に分かれていたのは確かなようです。派閥争いと築山殿、信康親子の殺害は関係あるのかもしれません。

瀬名姫と息子の信康は今川と織田の間で翻弄された德川(松平)家の象徴的な存在かもしれません。

主な参考資料
梓澤要,城主になった女 井伊直虎,NHK出版
石田正彦,おんな城主 井伊直虎 その謎と魅力,アスペクト
wikipedia